「少し前まで、誰からも称賛されて、警察署やソラ町運営会社から感謝状を贈られて、勤め先からも表彰されていたらしいのに、びっくりするほどの手の平返し。人間っていうのは勝手なものだね」 「気持ちはわからんでもないがな。死に損なった幼女虐待男が、僅か4歳の女の子にしたことを考えると、はらわたが煮え繰り返る。死刑で当然だった男を、なぜ わざわざ助ける必要があるんだ……!」 「氷河……」 逆帯氏の罪が、もし本当に許されることがあるのなら、それは 彼が刑期を終えた時ではなく、失われた命を取り戻すことができた時のみ。 それが氷河の考えなのだ。 氷河のその憤りは、ナターシャのマーマとして、瞬にも わからないわけではない。 しかし、医師としては全く賛同できず、アテナの聖闘士の立場に立てば、逆帯氏は、それでも アテナの聖闘士が守るべき一般人に分類される人間だった。 まして、人命を救助した人が責められる事態は、どの立場に立っても、間違っていると思わざるを得ない。 嘆息を漏らし、しかし、瞬は この件について 今 この場で深く話し合うことは避けることにしたのである。 朝から、ナターシャのいるところで、この話題は さすがに不適切だろう。 「あ、ピタゴラスイッチが始まる時間だね」 ナターシャの好きな2匹のペンギンが主人公の幼児番組の名を持ち出して、瞬は、話題とテレビの局を切り替えようとしたのである。 ナターシャの明るく輝く表情を期待して、瞬が巡らせた視線の先には、だが、残念ながら、瞬が期待していたものは存在していなかった。 代わりに、深刻と言っていいほど固く強張ったナターシャの顔がある。 ナターシャは、まるで いつものナターシャらしくない暗く沈んだ声で、瞬に尋ねてきた。 「あのおじちゃんは、死にそうだった人を助けてあげたのに、どうして怒られてるの?」 それが、ナターシャは不思議でならないらしい。 最初に彼がメディアに登場した時、AEDを正しく活用した立派なおじさんとして、ナターシャのいるところで、瞬も彼を褒めた記憶があった。 その手前もあって、瞬は その質問をスルーできなかったのである。 しかし、ナターシャに、今のナターシャと同じ歳で虐待され命を奪われた悲しい少女の話はしたくない。 だが、その少女に言及せずに、人命救助という善行を行なった人が非難されている現状を説明することは難しい。 そもそも彼への非難自体が理不尽なことなのだ。 瞬が躊躇していると、氷河が助け舟を出してくれた。 滅多にないシチュエーションである。 説明の仕方も、瞬には思いつかないものだった。 氷河は、今回の人命救助劇を、世界の平和維持に例えて、ナターシャに理解させようとしたのである。 「この騒ぎは、つまり――地球を壊して 人類を滅亡させようとしている邪神の手先が、道に倒れていた。心臓が止まっている。世界の平和と人類の存続を願う人間は、そいつを助けるべきか、助けずに見捨てるべきか。そういう問題なんだ」 「死にそうな悪者を助けるか、助けないか?」 ナターシャの理解力は、十分に小学校高学年レベルに達している。しかも、理解が速い。 氷河は まず そのことに満足したようだった。 首肯の深さが、平時より深い。 「そうだ。そのまま見捨ててしまえば、世界は平和なままだ。しかし、助けてしまったら、その行為は、世界の平和が壊され、多くの犠牲者が出る事態を招くことに繋がるかもしれない。助けなければ、みんなが平和に幸せに暮らしていられたのに、なぜ助けてしまったのかと、あの男は非難されているんだ」 「……」 ナターシャが黙り込んでしまったのは、氷河の説明が理解できなかったからではないだろう。 氷河の説明は理解できたが、賛同できない。もしくは納得できない。 だから、ナターシャは深刻な顔をして考え込んでいる。悩んでいるのだ。 どうするのが 正しいのか。 どうするのが よいことか。 “正しいこと”と“よいこと”が必ずしも同じだとは限らないから、ナターシャは なかなか納得できる答えに至れずにいるのだろう。 瞬は、彼女の悩みを終わらせようとした。 それは、大人でも容易に答えを出すことのできない難問なのだ。 「ナターシャちゃん。もし、目の前に死にそうな人がいたら、その人が どんな悪者でも 助けてあげていいんだよ。難しく考えることは――」 『悪者だから見殺しにしろ』などと、ナターシャに言えるわけがない。 言えないことは言わず、瞬は言えることを言った。 途端に、ナターシャが 長ソファの隣りに座っていた瞬の腕にしがみつき、その腕に額と頬を押し付けてくる。 ナターシャが パパではなく マーマにしがみついてくる時は、彼女が パパに嫌われることを恐れている時。 ナターシャは、その胸に、パパにもマーマにも言えない秘密を しまい込んでいるようだった。 「倒れてるのが、パパとマーマが倒した人なら、ナターシャは その人を助けないと思う」 くぐもった声で、ナターシャは そう言った。 ナターシャは、少し泣いているようだった。 「ナターシャちゃん……?」 相手が悪人でも――苦しんでいる人、弱っている人を 助けてあげられないことが、そんなにつらいのか。 だとしたら、瞬は ナターシャの その優しい心を否定しようとは思わなかった。 「ナターシャちゃん。ナターシャちゃんは、ナターシャちゃんのしたいようにしていいんだよ。本当に助けちゃいけない人なら、ナターシャちゃんが助けてあげたあとで、僕と氷河が 世界を守るためにすべきことをするから」 それは、だが、ナターシャの求める答えとは違っていたらしい。 瞬の腕にしがみついたまま、ナターシャは首を横に振った。 「パパとマーマの敵なら、ナターシャは迷わない。パパとマーマの敵とは、ナターシャだって戦う」 涙を帯びた声だったが、そう告げるナターシャの声と言葉には、確かに どんな迷いも感じられなかった。 実に決然としたものだった。 では、ナターシャの涙と肩の震えは 何のために生じたものなのか。 瞬は、ナターシャに勇気を奮い起こさせるために、彼女の背中を そっと撫でてやったのである。 「僕と氷河は、何があってもナターシャちゃんを大好きで、必ずナターシャちゃんを守るよ。必ずね。何があったの? ナターシャちゃんは、どうして泣いてるの? 僕と氷河に お話して?」 ナターシャが恐れているのは、パパとマーマに叱られることではなく、嫌われること。 『何があっても大好き』と言われて、ナターシャは、彼女の秘密をパパとマーマに打ち明ける勇気を持てるようになったようだった。 「ナターシャは、あのおじちゃんたちのことを知ってるノ」 と、ナターシャはテレビの画面を指さして、言った。 「え?」 『あのおじちゃんたち』というのは、昨今のワイドショーの大スター、旧徐氏に命を救われた逆帯氏と、逆帯氏の命を救った旧徐氏のことだろうか。 もしかしたら、今 日本で1番目と2番目に憎まれ嫌われている二人の男性に、ナターシャは直接 会ったことがあるのか。 瞬と氷河は 視線を見合わせ、共に首をかしげた。 確かに、それは あり得ないことではない。 氷河の店は、スカイツリーの足元と言っていい場所にあり、ソラ町は お隣さんとまではいかないが ご近所さんではある。 ソラ町のダイニングフロアとフードマルシェには、蘭子の店はないが、蘭子の知り合いの店が複数存在し、彼女は それらの店に酒を提供しているのだ。 蘭子がナターシャを連れて ソラ町にお茶やショッピングに繰り出していくことも しばしばあった。 今 日本で最も有名な二人の 男性とナターシャが、ソラ町やスカイツリーでニアミスしていた可能性は 決して少なくない。 「ナターシャちゃんは、あのおじちゃんたちを、二人共 知ってるの?」 瞬に問われると、ナターシャは、しがみついていた瞬の腕に絡めていた腕を解き、瞬の腕に押しつけていた顔を上げて、こっくり頷いた。 濡れている頬を、瞬がタオル地のハンカチで拭い去ると、ナターシャは 自身に決意を促すように、唇を引き結んだ。 そうしてから、その唇を解いて、彼女の秘密を語り始める。 日本中の自称名探偵たちが 夢中になっているミステリーに、新たな登場人物から提供された 新しい推理の材料。 それは、ワイドショーの制作会社がハイエナのごとき形相で食いついてきそうなハイレベル、ハイクラス、ハイクオリティな情報だった。 「あの紫のダウンの太ったおじちゃんを助けたのは、もふもふのおじちゃんじゃなくて、ナターシャだよ。悪いのは もふもふのおじちゃんじゃないヨ」 「……ナターシャちゃん」 察するに、“紫のダウンの太ったおじちゃん”が逆帯氏、“もふもふのおじちゃん”は旧徐氏のことらしい。 ナターシャは、 「もふもふのおじちゃんは悪くないヨ。ナターシャが、紫の太ったおじちゃんを助けなさいって、もふもふのおじちゃんに命令したんダヨ」 と、自分が 人命救助劇の黒幕(?)だったことを、つらそうな目をして 氷河と瞬に告白してきた。 ナターシャの語るところによると。 何でも、ソラ町ダイニングフロアが混んでいる時、人に揉まれずに移動する手段として、ナターシャは 蘭子に、ソラ町バックヤードの従業員専用通路を突っ切る方法を教えてもらったらしい。 その日、ナターシャは、ソラ町のパフェカフェに 季節限定メニューが追加されたというので、どんなパフェなのか偵察に行ったのだそうだった。 パパには蘭子と一緒だと思わせて、一人でこっそり。 (だから、その事件のことをずっと、氷河にも瞬にも報告できずにいたらしい) 新しいパフェの姿と提供期間を確認後、業務員専用通路の食品冷蔵貯蔵庫の前を通ったら、そこに紫色のダウンジャケットを着た太ったおじちゃんが倒れていた。 ナターシャは すぐに頬に触れ、手首に触れ、胸に触れ、彼の心臓が動いていないことを確認。 心臓蘇生の必要を確信したのだそうだった。 ナターシャは、ソラ町ダイニングフロアのAED設置場所を知っていたので、すぐに その場所――フロアの北の端、階段の踊り場――に急行した。 その時、階段を使っていたのは、もふもふのおじちゃん こと旧徐氏一人だけだったらしい。 ナターシャは、AEDを持って 自分についてくるよう、旧徐氏に命令した。 旧徐氏は、驚き 慌てつつも、ナターシャの有無を言わさぬ毅然とした態度に逆らうことができず、ナターシャの指示に従った。 そして、結局 彼自身が 心肺停止状態の逆帯氏の蘇生作業に取り組むことになってしまった――ようだった。 最初に 逆帯氏の携帯電話で、119番通報したのは、死んだ少女ではなくナターシャ。 119番通報さえすれば、GPS衛星経由で消防指令センターに通じることを知っていたナターシャは、 『ソラ町の6階に救急車、大至急ダヨ!』 とだけ言って、尻込みする旧徐氏を励まし、蘇生処理を指示する仕事に取り掛かったのだそうだった。 つまり、旧徐氏と 逆帯氏は、全く偶然に、ナターシャの導きで出会った赤の他人同士だったのだ。 自分のしたことで、旧徐氏が責められている。 ナターシャは 旧徐氏への非難が得心できず、同時に、自分が悪いことをしてしまったのかもしれないと 怯えながら、この数日を過ごしていたのだそうだった。 |