『その客が、俺とナターシャから 瞬を盗むことのないように、しっかり見張っていろ』 と、パパから極秘指令を受けていたナターシャは、 「聞いていた以上に可愛らしい お嬢さんですね。ナターシャちゃんは、お行儀もいいし、とても賢そうだ。目が きらきら輝いている。さすがは、瞬先生のお嬢さん」 という伏野医師の大絶賛に、手もなく陥落してしまった。 ナターシャは お客様が大好きだが、ナターシャを『可愛い』『いい子』と褒めてくれるお客様は、もっと大好きなのだ。 しかも、このお客様は、とても綺麗なシャインマスカットのタルトをお土産に持ってきてくれた。 ナターシャは、(決してパパの極秘指令を忘れたわけではなかったろうが)当然のごとくに、初めてのお客様の味方になってしまったのである。 「宝石箱みたいに綺麗なタルト。よかったね、ナターシャちゃん」 ナターシャが 綺麗で美味しいシャインマスカットタルトに目と心と舌を奪われている横で始まった伏野医師の相談事は、だが、決して軽々しいものではないようだった。 なにしろ、彼の相談事は、彼の生い立ちの説明から始まったのだ。 「僕が医師になったのは、ある一人の女性のためでした。僕が医師になれたのも、その女性のおかげです」 と、彼は語り始めた。 その女性の気の毒な病気のことから。 「彼女は筋萎縮性側索硬化症の患者でした。発症は中学に上がった頃。僕と同じ高校に入学する頃には 既に車椅子生活になっていました」 「筋萎縮性側索硬化症……」 筋萎縮性側索硬化症は、手足、喉、舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉が徐々に瘠せて、力がなくなっていく病気である。 筋肉を動かし 運動を司る神経が障害を受け、そのため、脳からの『手足を動かせ』という命令が身体の各部位に伝わらなくなり、筋肉が瘠せていく。 その一方で、体の感覚、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれるため、思う通りに動けない患者当人が自分に対して感じる焦れったさは、尋常のものではない。 筋萎縮性側索硬化症を発症し、車椅子生活になったにもかかわらず 普通高校に入学したというのなら、それは極めて稀なことである。 日本の高校で、そこまで受け入れ態勢が整っている学校は少ない――実を言えば、瞬は、皆無だと思っていた。 「彼女は穂積家という信州では有名な素封家の一人娘で、名前は麗――穂積 麗といいました。快活で、本当に頭のいい人でした。高校は、あの辺りでは トップクラスの私立進学校。穂積家は、彼女が車椅子で学校に通えるよう、億単位の寄付をして、学校にエレベーターやスロープを設置させ、校舎をバリアフリーに改築させたんです」 「は……」 グラード財団総帥である城戸沙織の大胆さ 思い切りのよさは、瞬も しばしば目の当たりにしているが、世界の平和のためではなく、公共の利益のためですらなく、身内の特定個人のために そこまでのことをしてのけるとは。 瞬は、穂積家の利己主義、自分勝手に、いっそ すがすがしさを覚えてしまった。 「僕は、麗とは同い年の幼馴染みで、子供の頃は、よく彼女の家にやってくる大きな黒塗りの車のナンバーの当てっこをしたものです。麗の家は、政財界の大物が お忍びで訪ねてくるような家だったので……。麗は本当に頭がよくて――勉強もできたし、考え方も大人びていた。僕は、小中高と彼女と同じ学校で、学業の面では常に彼女の好敵手という立場にいましたが、本当は凡才レベルでしかなかった僕を 秀才と呼ばれる立場の人間にしてくれたのは麗です。僕は、聡明で賢明で勤勉な彼女の影響を受け、感化され――人の成長にとって、環境という要素は大事ですよ、本当に」 そう言って、彼は、シャインマスカットを一粒一粒フォークに刺して、嬉しそうにタルトを食しているナターシャを見やった。 瞬が育った環境は想像できなくても、ナターシャの今ある環境から、彼女の将来は想像できる――と言うかのように。 「もともと 僕は、彼女と同じ高校に入学する予定でした。ところが、その一ヶ月前に、僕の両親が交通事故で――いや、あれは雪崩に巻き込まれたというべきか、ともかく事故で亡くなったんです。僕の家は ごく普通の――中流の家で、父母の生命保険金は それなりに下りましたし、父の死で家のローンも無くなりましたが、頼れる親族はおらず、僕は未成年。それでも 相続税は納めなければならないんですね。どう考えても、家を売るしかなくて――僕は進学どころじゃなくなったんです。住む家を探すところから始めなければならなくなった」 「途方に暮れていた僕に手を差しのべてくれたのが 麗でした。有り体に言えば、麗が僕を拾ってくれたんです」 「彼女の進言で、信州では逆らえる者のいない彼女の父上が、僕の未成年後見人になってくれた。穂積氏は、進学を諦めかけていた僕に、娘の付き人として高校に通うよう、命じてくれた。医師志望の僕に、医師になって娘の病気を治すための努力をするよう命じてくれた。医師になるための学費は 国立大でも1千万はかかる。彼女の父君は それも出してくれた。僕は、高校へは、麗の家から 麗と一緒に通いました」 娘のために億単位の寄付をしてのけるほどの素封家には、孤児を一人 引き取り、大学まで出してやることは、さほどの大ごとではないのだろう。 城戸光政は百人の孤児を集め、その子供等の人生を、血の繋がらない孫娘ための供物にしてのけた。 ある種の富裕層、権力者が 弱者を自分と同じ人間と思っていないのは事実である。 だが、伏野医師と穂積麗の関係は そういうものではなかっただろう。 「麗さんは、伏野先生をお好きだったんですね」 それ以外、考えられない。 恋か、兄弟同然の幼馴染みへの信愛の情か――それが どういう種類の思いだったのかは、穂積麗ならぬ身の瞬には わかるはずもなかったが、ともかく穂積麗が伏野医師に 並々ならぬ好意を抱いていたことだけは確かである。 「僕も 麗を好きでした。あれが恋だったのかどうかはわからないんですが、恋でなかったとしても、恋以上に麗を好きだった。穂積の家で、僕を召使い扱いすることもできたのに、麗は いつも対等な一人の人間として、敬意をもって、僕に接してくれた。彼女が僕に優しいから、穂積の屋敷でも、僕は 居候というより 客人扱いだった」 ナターシャの手が、タルトを半分 食べ終わったところで、フォークを握りしめたまま止まっていた。 伏野医師の語る話が、ナターシャには、賢く優しい お姫様と 貧しくとも誠実な若者の 素敵な恋物語に思えているのかもしれない。 実際 そうだったのだろう。 しかし、これは絵本の おとぎ話ではないので、ハッピーエンドになるとは限らないのだ。 「大学入試は、二人で上京して挑みました。僕は臨床希望、麗は研究希望。麗は障害を考慮した別室受験でしたが、もちろん、二人揃って合格しました。その頃には、麗は かなり弱っていて、実際に学校に通うことはできなかったんですが……」 「通うことは無理だとわかっているのに、麗が大学を受験したのは、僕が遠慮して、入試を辞退することがないようにと、それを考えてのことだったと思います」 ナターシャの眉が、心配そうに歪み始めている。 瞬はナターシャに席を外させようかと思ったが、伏野医師は、彼の物語を続けた。 彼も、ナターシャの不安には気付いているようなのに。 |