「東京にマンションを用意してもらって、大学へは僕だけが通うことになりました。長期の休暇の他に、僕は月に一度は穂積の家に帰っていた。半年に一度くらいは、麗も東京に来てくれた。僕は懸命に勉強し、医師国家試験に合格した日、穂積の家に飛んで帰って、麗にプロポーズしました」
“プロポーズ”という言葉に、ナターシャの瞳が輝く。
だが 瞬は、逆に、暗い予感に襲われたのである。
そんな予感に 改めて襲われるまでもなく、伏野医師は最初から、『僕が医師になったのは、ある一人の女性のためでした』と、彼女のことを過去形で語っていたのだが。

「その頃には、麗は もう、声も出せなくなっていた。表情一つ作るのも つらそうで、僕のプロポーズにも答えてくれませんでした。イエスともノーとも。ただ、瞳が輝いて――それが喜びの輝きだったのか、悲しみの作るものだったのかは、今となっては わかりません」
「麗は、その数日後に亡くなったんです。筋萎縮性側索硬化症には 全く関係のない肺炎で。まるで、両親を失って、寄る辺ない孤児の身になった僕を医師にするために――ただ そのためだけに、それまで 懸命に生き永らえてくれていたかのように――」
「伏野先生……」

こういう時、大人という生き物は実に不便である。
どうしても、悲しんでいる人の心から 悲しみを消すための言葉を探してしまうのだ。
そうしなければならないと、強迫観念のように思う。
そんな言葉が あるはずもないのに。
その点、ナターシャは、大人と違って、正直だった。
自分の感情に 正直に、素直に、率直に、反応する。
コーナーソファのコーナー席に座っていたナターシャは、手にしていたフォークを放棄し、
「マーマ……!」
隣りにいた瞬の胸に潜り込んで、しくしく泣きだしてしまった。

よその家の小さな女の子を泣かせてしまったというのに、伏野医師は慌てた様子は見せなかった。
むしろ 彼は 感心したようだった。
ナターシャが ナターシャの歳で、“死”の意味するところを ほぼ理解していることに。
「ナターシャちゃん、泣かないで。人間は――人間の“好き”という気持ちは、死んでも消えないものだから。僕の話には続きがある」
伏野医師の声は落ち着いていた。

ナターシャが、瞬の胸に押しつけていた顔を上げる。
その瞳は 涙で濡れていたが、同時に 求知心に似た光を宿してもいた。
ナターシャにとって、“死”とは、“大好きな人と二度と会えなくなること”だから、“悲しく、可能な限り避けたいこと”だった。
もし それ以外の何かがあるのなら、ナターシャは、その“何か”を知りたいのだ。

その何か――。
伏野医師の話の続きは、少々――否、かなり―― 一般的ではなかった。
そして、現実離れしていた。

「瞬先生には信じられないかもしれませんが――いえ、瞬先生なら わかってくださるかもしれませんが、穂積家は、古事記では 建忍山垂根、日本書紀では 穂積忍山宿禰と記されている人物を祖とする神別・穂積氏の流れを汲む名家で、霊能力を有する者を輩出している一族なんです」
と、伏野医師は 真顔で語り出したのだ。

「土地を持っているわけでも、特別の事業を行なっているわけでもない 穂積の家に あり余るほどの財があるのは、穂積家の霊能力者が 政財界の大物や野心家たちに“天の言葉”を授けることで、権力財力を与えてやっているからです。穂積家を詣でる客人たちは、『天の言葉を 自分のライバルには与えないでくれ』という口止めの意味も含めて、法外な謝礼金を穂積の家に献上する」
「穂積の家から離れたせいで、解体の憂き目を見ることになった財閥、権力闘争に負けて影響力を失うことになった政権は多く、それが伝説となっていて――穂積の客は、大勢いるわけではありませんが、1億2億は はした金という方たちばかりですから、その辺りのことは察してください」
「麗は、穂積家直系の血を引く最後の一人でしたから、穂積の家では、当主である父親より大切にされていたんです」

「……」
誠実で清らかな恋人同士の悲恋に 胸を痛めていたはずだったのに、話が いつのまにか きな臭い方向に進んでいる。
伏野医師の話の想定外振りに、瞬は 幾度も 瞬きを繰り返すことになった。
ナターシャは 逆に、瞬きを忘れたように 瞳を見開き、ぽかんとしている。

「麗が生きている時には、穂積の家に暮らしていた時にも、僕は穂積の家の成り立ちも生業も――聞いてはいましたが、信じてはいませんでした。政界を引退した総理大臣経験者が、後継者の娘婿を伴って 代替わりの挨拶に来た時も、麗の父に平身低頭している総理経験者より、そんな義父を不愉快そうに睨んでいる娘婿の方に、同感していた」
「麗が死んで数ヶ月後、何年か振りに はっきりと麗の声を聞いた時、僕は初めて、穂積家の霊能力は本当のことだったのだと知った――いえ、認めざるを得なくなったんです」
「麗は、僕に会いたい、触れたいと言う。麗は 生に未練があるんだと思うんです。麗は 生き返りたがっている」

霊能力、死者の声、生への未練。生き返りたいという死者の願い――。
瞬でなかったら、古いゴシック小説の あらすじか何かかと思うところである。
瞬でなかったら、伏野医師の正気を疑う。
だが、瞬は瞬だったので――なぜ伏野医師の相談相手が自分だったのか、自分でなければならなかったのかが わかってしまったのだ。

「僕に、光が丘病院への勤務を勧めたのは 麗です。麗が、この辺りに、穂積の血を引く人間より 神と死者の魂に親しい人間がいると言うので」
「あ……あの、いえ、僕は――」
「麗の言う、穂積の血を引く人間より 神と死者の魂に親しい人間というのは、瞬先生のことですよね?」
「ぼ……僕は ごく普通の人間で――」

それは嘘ではない。
瞬は穂積家の人間と違って、自分から冥界や異界とのコンタクトを望んだことは、ただの一度もない。
伏野医師の相談の内容が どのようなものであれ、ここは白を切り通すしかない。
伏野医師の依頼の内容が どのようなものであれ、それを叶えてやることはできない。
嘘ではない 瞬の逃げ口上は、だが、正直で素直なナターシャが 水泡に帰してしまったのである。
パパの忠実な同志であるナターシャが、『瞬を守れ』というパパの至上命令の実行に、迅速に取り掛かってしまったせいで。

「マーマは冥界に行っちゃ駄目なんダヨ! ハーデスが、パパとナターシャから マーマを盗もうとするカラ! 神は人間よりタチガワルイって、パパは いつも言ってる!」
「ナ……ナターシャちゃん!」
「それで、ナターシャも、冥界に近付いちゃ駄目なんダヨ! シシャのタマシイが、ナターシャをパパから引き離そうとするカラ! ナターシャが冥界に連れていかれたら、パパが泣いちゃう!」
「え……絵本の話です!」

瞬の苦し紛れを、伏野医師は 聞いてもいなかった。
「やはり、根の国の死者と接する手立てがあるんですね!」
身を乗り出し、気負い込み、まるで言質を取って嬉々とする刑事か検事のように、伏野医師は 瞬に迫ってきた。
万事休す。
大人が何を どう言い繕っても――所詮、大人というものは、大人より正直な子供の言葉の方を信じるようにできているのだ。






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