瞬にとって幸いだったのは――不幸中の幸いというべきか――伏野医師の相談は、あくまでも“相談”であって、“依頼”でも“強要”でもなかったことだった。 瞬は てっきり、『穂積麗を生き返らせてくれ』というのが伏野医師の望みだと思っていたのだが、そうではなかったのだ。 穂積麗の声は、伏野医師に『会いたい』『触れたい』と訴える。 伏野医師も、その望みを叶えたいと思う。 だが、どうやって? 『自分と同じ難病患者の治療法確立に役立ててほしい』という彼女自身の強い要望で 献体登録されていた穂積麗の亡骸は 既に病理解剖を完了し、埋葬済み。地上世界には存在しないのだ。 伏野医師の“相談”は、 『誰にも迷惑をかけずに、麗の望みを叶えるには どうしたらいいのか、その方法を教えてほしい。知らないなら、調べてほしい』 というものだったのだ。 「麗の望みを叶えるためになら、僕は何でもします。その方法を教えてください。そのために、力を貸してください」 泣いて すがらんばかりの目に、固い決意の光をたたえて、そう言い、伏野医師は帰っていった。 『今日は帰りますが、僕は絶対に諦めない』と、声には出さず、眼差しで言い残して。 それが聞き取れず 読み取れない自分だったら、どんなに よかったかと、瞬は 心の底から思ったのである。 死んだ恋人が 生きている恋人に“会い”、“触れる”には どうしたらいいのか。 “触れたい”という望みは、降霊術のような方法では叶わない。 それは つまり、穂積家の一族の力では 叶わないということである。 穂積家の人間が持っているのは、“声を聞く”力だけ。 穂積麗は、それに加えて、死者である自分の思いを伏野医師に伝えることができるようだったが、結局 それは降霊術と大差ない 交信レベルの行為で、接触ではないのだ。 聖闘士なら ハーデスの許可を得られれば 肉体の再生も可能であるが、それは、生者の国に行って ハーデスのために戦う場合に限られる。 霊能力のある家の一人といっても、さすがに肉体の再生は無理だろう。 「『無理だ』と答えればいいだけのことじゃないか」 と、翌朝 仕事から帰ってきた氷河は瞬に言った。 死んだ人間を蘇らせることはできないのだと、当たりまえのことを言ってやればいい――と。 それはそうである。 それは氷河の言う通りで、そして、何もしないのが普通の人間の対応だということは、瞬も承知していた。 しかし、氷河に、そんな普通のことを言う権利があるだろうか。 自分は ナターシャという、本来なら生きていないはずの娘を、自分の我儘で生かし続け、幸せな父親としての日々を謳歌しているというのに。 余人は ともかく、氷河にだけは、そんなことを言う権利はない。 そして、伏野医師のために何もせずにいることも、瞬には できそうになかったのである。 伏野医師に『無理だ』と答え 何もせずにいたら、伏野医師は おそらく、彼自身が死ぬ その時まで、穂積麗の望みを叶えてやることのできない自分の無力を嘆き続けることになるだろう。 そして、願いが叶わない穂積麗の心は、伏野医師が死んでも、永遠に生者の世界に留まったまま、死者の国に赴くこともできないに違いない。 何か――穂積麗と伏野医師には、何かが必要なのだ。 穂積麗は、生き返るのではなく、ちゃんと死ぬための何か。 伏野医師は、これからを しっかりと生きていくための何か。 その何かを探すために 瞬が頼ったのは、冥界のエキスパート(?)蟹座キャンサーのデスマスクだった。 瞬が どれほど考えても わからなかった何か。 その何かを、デスマスクは、 「その女は、生きている人間の身体を欲しがってるんだよ」 と、実に あっさり断言してくれた。 「自分の身体は死んで、既に埋葬されてる。埋葬されてなくたって、自分の身体は、自力で手足も動かせないような身体だ。蘇らせても 意味はない。その女が欲しいのは、生きていて、健康で、できれば若く美しい女の身体だろう。それが手に入れば、自分の好きな男と会って、触れ合うこともできるというわけだ」 「……」 それ以外に どんな望みが考えられるのかと 言わんばかりの口調で嘯くデスマスクに、瞬は 瞬時――否、暫時――もとい、かなり長い時間、返す言葉を思いつけずにいた。 「そ……それはどういうこと?」 デスマスクの言うことが 理解できなかったわけではない。 瞬は、彼の言うことを理解したくなかったのだ。 それは わかっているくせに、デスマスクが懇切丁寧な説明を加えてくる。 「だから、ハーデスがおまえの身体を乗っ取って、自分のものとして使おうとしたように、その死んだ女も、自分の好きな男の恋人になれる女の身体を見付けて、自分のものにしようとしている――ということだ」 「まさか、そんな……」 デスマスクが確信に満ちて告げる推察を、瞬は信じることができなかった。 伏野医師の話を聞く限り、穂積麗は 聡明で賢明な女性である。 伏野医師に深い好意を抱いていたのは確かだろうが、生前 自分の立場を利用して、我儘を言ったり、無理に愛情を押しつけたりするようなこともしなかった。 彼女は 彼女自身の身体のハンデを自覚し、伏野医師の負担にならないように 努めていた。 そんな人が、自分の恋を叶えるために、他人の身体を物のように奪い、道具のように使おうとしているというのか。 そんなことを思いつくのはハーデスくらいのものだと、瞬はデスマスクに反駁したかったのである。 だが。 だが、自分の身体のハンデを知るからこそ、伏野医師の負担になるまいと努め、耐え、最後まで耐え抜いて 死んでいった人が、生きている時には決して叶わなかった恋を 実らせたいと願う気持ちも わかるような気がして、瞬は何も言えなくなった。 「現状でも、意思の疎通はできてるんだろ? 元の身体で生き返るのは不可能で無意味だってことも わかってる。なのに、おまえの力を借りて、更に 『会いたい』『触れたい』って言ってるなら、それしか考えられないだろ。その女の魂を入れる身体を、ナターシャみたいに作るわけにはいかないから、既にあるものを使うしかない」 「……」 そうかもしれない。 そうなのかもしれない――と思う。 けれど。 「でも、それが麗さんの望みだというのなら、僕には どんな力を貸してあげることもできないよ」 「そりゃそーだ」 それまで自信満々で自説を主張していたデスマスクが、瞬の消沈した様子を見て、なぜか急に 忌々しげに舌打ちをした。 「俺が殺した奴等の中にも いたんだろうな。俺のせいで、好きな相手と永遠に触れ合えなくなってしまったような奴が」 嫌なことを思い出させやがって――と 低く呟いて、デスマスクは 掛けていた椅子から立ち上がった。 「噂の幽霊憑き医師を見物してから、帰ることにする」 最初から そのつもりで、彼は、待ち合わせの場所に、ここを――光が丘病院の 院内カフェを――指定してきたのだろう。 デスマスクは、瞬に背中を向けたままで、瞬にひらひらと手を振り、カフェの出口に向かって歩き出した。 カフェを出たところで、迷う様子もなく、廊下を右に曲がる。 その先の棟に、伏野医師のいるリハビリテーション科と その医局があった。 |