「まさに暴虎馮河。自分の力のレベルを正確に把握していないということは、恐ろしいな。冥府の王ハーデスでさえ乗っ取れなかった おまえの身体を、一介の幽霊の分際で乗っ取ろうとするとは」
ここは笑うところだろうか。
絶対に そうではないと思うのだが、瞬の話を聞いたデスマスクは、『無事でよかった』も『大変だったな』も言わずに、まず呵々大笑した。
瞬は、それでも、デスマスクが笑い終わるのを待つつもりでいたのだが、その僅かの時間も待てなかったらしい氷河が、デスマスクの頭を 音だけは景気よく はたいたので、彼はしぶしぶ笑うのをやめてくれた。

「ってーじゃないか! てめー、先達に対する礼儀を知らねー奴だな!」
「何が先達だ。20を2つ3つ超えたばかりの若造が。今、俺は気様より年上だ」
「大事なのは、実年齢じゃなく、見た目だ!」
「ほう、自覚はしていたんだな」
「そりゃ、どーゆー意味だよ!」
「どういう意味も こういう意味もない。普通に言葉通りだ」

デスマスクも氷河も まだまだ文句が言い足りないようだったが、それでも、二人は、そのあたりで不毛なやりとりを切り上げ、瞬とのディスカッションに取り組もうとする姿勢を見せてくれた。
おそらく、自分たちの周囲で、目には見えない黄金の鎖が 少しずつ動きを速く大きくしていることに気付いたのだろう。
二人が口を閉ざし、瞬の方に向き直ると、鎖は静かに大人しくなった。

「そんなに 呑気に笑っていていい事態じゃないでしょう。彼女は、僕の身体を乗っ取ろうとしたんです。つまり、それは デスマスクさんの推察が間違っていたということ。我々は、別の可能性を模索しなければなりません」
やっと騒ぐのをやめてくれた生徒たちに、瞬先生が向き直る。
途端に、デスマスクから『先生、しつもーん』が飛んできた。
「なんでそういうことになるんだよ? 敵の目的は、生きている人間の身体を使って、自分の恋を実らせること。それで、間違っちゃいないだろ。なぜ別の可能性を考える必要があるんだ?」

「……」
デスマスクの質問の意味がわからない。
瞬は、デスマスクの質問に 質問で答えることになった。
「なんで そういうことに――って……。そういうことになるでしょう。僕は男なんです。僕の身体を支配しようとしたということは、若く健康な女性の身体を手に入れて、伏野先生との恋を成就させることが、彼女の目的ではないということになるでしょう……?」

話しているうちに、自信がなくなってくる。
そんな瞬とは対照的に、デスマスクは、
「それはどうかな」
自信満々だった。
氷河も――氷河は 何も言わないが、デスマスクの意見の方が正しいと考えているらしい。
彼は、デスマスクの推察を、非常に不愉快に感じているようでもあったが。

「女の敵は女。女にとって 女は皆 ライバルだ。その女の中には、たとえ身体だけであっても、自分の好きな男が 他の女を抱くのは許せない――という気持ちがあるんじゃないか」
「は?」
「だが、それが男なら、そんな妬み心も生まれない。で、男の中で、自分の身代わりとして許容できる綺麗どころとして、穂積麗は おまえに白羽の矢を立てたんだ。おまえは 大抵の女より綺麗だし、おまえが相手なら、その趣味のない新米医師も その気になるだろう。おまえには、全く その趣味のなかったマザコン男を その気にさせた実績がある」
「な……何を言っているんです」

悲しくも美しい悲恋の恋人たちに対して、その推測は あまりに失礼だろう。
それは清らかな恋人同士を侮辱する、まさに下種の勘繰り。
瞬は、そう思った。
心の底から、デスマスクの推測を下劣だと思い、立腹した。
立腹してから、それは、“女性の身体を用いて行なうなら下劣でない”ことではないと、思い直す。
それは、誰の身体を用いて行なっても空しいことだった。
男なら下劣で、女なら常識の範囲内――と思うのは、間違いなく性差別だろう。

ごく自然に、差別行為を行なっていた自分を、瞬は恥じた。
だから 瞬は、
「おまえ、一晩だけ、その女の死霊に身体を貸してやったらどうだ? それで、好きな男と寝ることができたら、死んだ女も諦めがつくかもしれん」
という、決して受け入れられないデスマスクの提案も、すぐに切り捨ててしまうことができなかったのである。

そんな瞬の代わりに 氷河が、デスマスクを凍死させるべく、小宇宙を燃やし始める。
氷河の凍気は、瞬の鎖と違って、考え直す時間を与えたり、『様子見、小手調べ、本気、限界突破』といった調子で段階を踏むわけではなく、最初から全力投球である。
デスマスクは、氷河の凍気の最初の痛みを感じるや、光速で話題を変えた。
「そういえば、伏野とかいう医者! ハーデスには遠く及ばないにしても 並々ならぬ力を持つ女が、死んだあとも そこまでの執着を見せる相手だ。何か隠された力でもあるのかと思って 探りに行ったんだが、見事に何ということもない普通の男だったぞ。あの男の 何がいいのか、俺には まるで わからなかった。蓼食う虫も好き好きということなのか」

デスマスクの失礼な発言が、瞬に手を出そうとしている(のかもしれない)男に対するものだったので、氷河は自らの凍気を いったん静めた。
その程度の男のために本気で腹を立てるのも、下劣な提案をする無礼聖闘士のために 本気で小宇宙を燃やすのも癪。
氷河は おそらく、そんなふうに考えて、矛を収めたのだろう。

間一髪というべきか、グッドタイミングというべきか、氷河が小宇宙を燃やすのをやめた瞬間に、
「パパー。お客様なのー?」
パジャマ姿のナターシャが、目をこすりながら、リビングルームに入ってきた。
ナターシャが眠りに就いてから始めたのに、ナターシャは、真夜中の大人たちの秘密の会合に気付いてしまったらしい。

ナターシャは、最近、どんどん小宇宙の気配に敏感になってきている。
瞬は慌てて ナターシャの側に駆け寄り、眠そうな顔をしているナターシャの身体を抱き上げた。
「ナターシャちゃん、夢の中でも 氷河に会いたくて、起きちゃったんだね。朝になったら、いっぱい遊んでもらえるから、今は おねむしようね」
マーマの言うことをよくきく いい子のナターシャは、瞬にそう言われると すぐに両の瞼を閉じた。

身に迫る危険は 直前で回避できたところだったので、デスマスクは、ナターシャの闖入を利用して逃げを打ったわけではなかっただろう。
が、ナターシャを彼女の寝室に戻すために、瞬が歩き始めた時には、
「また来る」
の一言だけを残して、蟹座の黄金聖闘士の姿は氷河の家のリビングルームから消えてしまっていた。






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