デスマスクが瞬たちを千代田区の東京大神宮に呼びつけたのは、真夜中の密談を開催した週の週末、日曜の早朝のことだった。
瞬は休日。
氷河は、前夜の客が終電が終わったあとまで ねばったので閉店が遅くなり、結局 店で夜明かし。店の後片付けをして、直接 デスマスクに指定された場所に向かうことになった。

参拝は朝の6時からできるのだが、神札の販売や祈祷が行なわれるのは9時以降なので、境内に 人の姿は ほとんどない。
――というより、約束の時刻、氷河が東京大神宮の境内に着いた時、そこにいたのは、彼を呼びつけたデスマスク、瞬とナターシャ、そして デスマスクに呼び出されたのだろう伏野医師だけだった。
いくら朝早いといっても、東京のど真ん中にある神社の境内に、このメンバーしかいないというのは奇異なこと。
境内にデスマスクの手で結界が張ってあることに 氷河が気付いたのは、彼自身が結界の中に取り込まれてからだった。

積み重なった死体が発する積尸気 漂う結界。
一般人の目には見えていないだろうが、たとえ見えていても 近寄りたいとは思うまい。
東京のど真ん中、東京大神宮の境内には そういう異界が出現していた。



「穂積氏というのは、神話の時代まで遡れば、祖は邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)に行き着く。そいつは天照大神の身内の神で、太陽神の一族といったところだ。全国の神明神社で祀られている。氷河の店に いちばん近いから、ここを選んだんだ。長野の仁科神明宮が最適だったんだろうが、遠いからな。死霊と話をつけるだけなら、ここで十分だろう」
「デスマスク。何をする気だ」

氷河の声が苛立っているのは、自分たちが デスマスクの都合で(?)勝手にこんな場所に呼び集められたからではなく(それもあったが)、この場にナターシャがいるからだった。
死者の放つ気で張られた結界。しかも、この結界の中には穂積麗がいる。
ナターシャが死霊と接触を持つのは、その霊に ナターシャを冥界に引き込もうとする意思がなくても、決して好ましいことではないのだ。

「マーマ」
いつもは1分でも長く 抱っこされていたがるナターシャが、自分の足で歩く意思表示をするのは、ここが初めての場所だから。
ナターシャは、未知の場所は、自分の足で歩いて冒険したがるのだ。

「デスマスク。ナターシャちゃんの身に危険が及ぶことはないんでしょうね?」
瞬の呼び方が、『デスマスクさん』から『デスマスク』に変わる。
デスマスクは何も答えず、にやにや 笑うばかり。
ほぼ面識のないデスマスクに、こんな場所 こんな時刻に呼び出されたことを、伏野医師が訝っている様子も 不快に思っている様子もないことが、瞬には不思議だった。
その理由は、まもなく わかったが。
デスマスクの企みも、すぐにわかってしまったが。

ナターシャが とことこと伏野医師の前に歩いていく。
彼の前で立ち止まる。
伏野医師の顔を見上げ、ナターシャは、
「この子は素晴らしい巫女だわ。おそらく、穂積の家の誰よりも、霊を受け入れる柔軟な座を持っている」
と言った。

ナターシャの声だが、ナターシャの言葉ではない。
デスマスクの狙いは これだったのだ。
冥界の王ハーデスにも支配できなかった瞬の乗っ取りを諦めて、もっと巫に ふさわしい身体の利用を穂積麗に示すこと。

氷河が眉を吊り上げる。
彼が、ナターシャの両親の許可を得ず 勝手にその身体を利用しようとしたデスマスクを倒そうとしなかったのは、ナターシャの身に何かあった時、彼の力が必要になることが わかっていたからだった。
彼のやり方に賛成したわけでも、彼を自分勝手を許したわけでもない。

デスマスクより よほど礼儀を わきまえているらしい穂積麗が、ナターシャの声で、
「申し訳ありません。お嬢様は すぐに無事に お返しします。どうぞ、ご心配なさらず」
と、氷河に詫びを入れてくる。
彼女は、ナターシャを ナターシャの保護者たちに“お返し”するつもりでいるのだ。
彼女は、ナターシャの身体を使って自分の恋を実らせることは考えていない。
穂積麗の礼儀正しさに免じて、氷河と瞬は しばし待つことにしたのである。
ナターシャが、氷河と瞬に一礼して、再度 伏野医師に向き直る。
そして、彼女は 彼女の告解を始めた。――もしかしたら、それは、彼女の遺言だったかもしれない。

「仁志くん。私は、ちゃんと仁志くんへの お別れの言葉を用意していたのよ。だけど、死の数日前、仁志くんからプロポーズされて、考えを変えた。私は 用意しておいた手紙を破棄し、新しい手紙を作ろうとしていたんだけど……。思っていた以上に急に容体が悪くなって、パソコンの視線入力もできなくなってしまった」
「霊になって、仁志くんとコンタクトできると気付いた時には嬉しくて、また迷いが生じた。もしかしたら、私は、ずっと仁志くんと一緒にいられるんじゃないかって。でも、そこのデスマスクさんに、それは生きている仁志君を不幸にする望みと言われて、以前の自分の気持ちに戻ったの。死んだ時の気持ち――に」
「仁志くんに何もしてあげられない私に、仁志くんは ずっと一緒にいようって言ってくれた。あの時、私は、仁志くんを自由にしてあげなきゃならないって思ったの。仁志くんのため、私自身の誇りのため」

「麗……」
「ナターシャちゃん……」
言葉は穂積麗のものだが、声を作っているのは ナターシャの――小さな少女の――身体である。
そして、もちろん、瞬は穂積麗の声を知らない。
それは確かにナターシャの声なのだが――始めは 確かにナターシャの声だった それが、瞬の耳には徐々に、思慮深く若い女性の声に聞こえ始めていた。
その声と言葉の奥に、幾重にも折り重なった涙と苦しみと悔しさ、悲しさ、切なさが感じ取れる。
それらの思い、感情、思考のすべてが、愛と優しさのレースで包まれている。






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