「はあ !? それが用件なのかよ? そんなことを自慢するために、おまえは、わざわざ 俺たちを、東京の西の果ての練馬まで呼びつけたのか !? 」
星矢が、東京都多摩地区の住人が聞いたら 怒り心頭に発するような暴言を吐いたのは、『午後5時半必着』と時刻を指定し、『おまえだけでなく、紫龍も一緒の方が望ましい』と条件までつけて、自宅に仲間を呼びつけた氷河が、ナターシャの“パパのお嫁さんになりたい”騒動を嬉々として報告してくれたからだった。
それは、地上の平和を守るために命をかけて戦うアテナの聖闘士――それも、射手座の黄金聖闘士と 天秤座の黄金聖闘士――を緊急招集までして、披露しなければならないような重要事案だろうか。
半ば疑念でできた星矢の怒りは、至極自然なものだったろう。

星矢の怒声が聞こえているのかいないのか、氷河は、星矢の怒りを無視し、彼の目の前で ジャケットを着込んだ。
自分の言いいことは言い終えたので、氷河は(氷河自身は)満足したのだ。
そんな氷河とは対照的に、そんな氷河のせいで 気が収まらない星矢は、再び 氷河を怒鳴りつけようとした。
そこに、星矢の苛立ちをなだめるように、夕食の支度を終えた瞬が、ダイニングキッチンからリビングルームの方に 慌てた様子で移動してくる。
「ごめんね、星矢、紫龍。急に夜勤を頼まれちゃって――。夕食は温めるだけにしてあるから、7時頃に ナターシャちゃんに食べさせてちょうだい。シチューにマスのムニエル……星矢たちの口に合えばいいんだけど。サラダのドレッシングは冷蔵庫の中。シーフードのマリネも冷蔵庫の中にあるから、出して食べて」

「ああ。大丈夫だ。初めてのことではないし、ナターシャがちゃんと心得ている」
「ナターシャは、氷河より頼りになるもんな」
紫龍と星矢に頼りにされて、ナターシャはご機嫌である。
ナターシャ自身、パパとマーマが二人共いない夜は初めてではないし、パパやマーマに心配をかけない いい子でいる自信があったのだ。
「ナターシャを いっぱい頼っていいヨ!」
ガッツポーズで満面の笑みをたたえたナターシャの頭に手を置いて、星矢は、
「よろしく頼むぜ」
と、片目をつぶってみせた。

時間に縛られる仕事に従事している瞬や氷河とは違って、紫龍は 時間を自分の都合に合わせてセッティングできる仕事をしている。
星矢に至っては、完全自由業。
二人は、ナターシャを預かることを手間や面倒だと思ってはいなかった。
むしろ、氷河と瞬の秘密情報を あれこれ聞き出せるので、彼等はナターシャの世話を任されることが好きで、楽しみにしてすらいた。
ナターシャを一日一晩預かることには何の問題もないのである。
問題は、そこにはない。

「ナターシャより氷河の方をどうにかしろよ。娘に、『パパのお嫁さんになりたい』って言われるのが、そんなに嬉しいのか? さっきから、無表情で喜びまくってるのが、すげー気持ち悪いんだけど」
「何とでも言え。『パパのお嫁さんになりたい』は、娘を持った父親なら、誰もが夢見る永遠のロマンだ」
「ロマン? ロマンねぇ……」

『それって美味いのか?』と突っ込むのも馬鹿らしいと言わんばかりに口許を歪め、星矢が両の肩をすくめる。
そんな星矢と氷河の間で、瞬は、自分のポジション取りに腐心していた。
氷河のロマンには共感できないが、氷河の娘のマーマとして、氷河の肩を持たないわけにもいかない。
身内だけが集まっている場では、そのあたりの立場の加減と 対応の仕方が なかなか難しいのだ。

「星矢、ごめんね。言いたいことは色々あると思うけど、大目に見てやって。ナターシャちゃんは、リコちゃんとお友達になるまで、『パパのお嫁さんになりたい』って言ったことがなかったんだよ。氷河は このままずっと言ってもらえないままで終わりそうだと、諦めかけてたんだ。それが、ここにきて、急転直下の『パパのお嫁さんになりたい』でしょう? 諦めかけてた分、喜びも大きいらしくて」

瞬から 氷河の不気味な無表情の歓喜の経緯説明を聞き、星矢は、一層 情けない顔になってしまったのである。
その情けない顔を、仲間たちに向ける。
そんな星矢を、ナターシャが怪訝そうに見詰めるのは、パパが喜んでいるのに 何が問題なのかが、彼女には わからないから。
紫龍はといえば、そんな二人の価値観と感情の微妙な すれ違いに苦笑することしかできない。

「もしかしなくても、氷河は、今が 氷河史上 最高のモテ期なんだ。気持ちはわかるが、瞬の言う通り、大目に見てやれ、星矢」
瞬は仕方がないにしても、紫龍までが氷河の肩を持つとは。
星矢は、そう言いたげな顔つきになった。
が、彼は彼の不満を言葉にしなかった。
できなかったのである。
星矢が口を開く前に、ナターシャが、
「パパは、今が最高のモテ期なの? パパは、これまで もてたことがなかったの?」
と言って、大人たちの間に割り込んできたせいで。
つい先日 覚えたばかりの“モテ期”という言葉が聞こえてきたので、ナターシャは どうしても、大人たちの会話の仲間に入りたかったらしい。

ナターシャの素朴な疑問に、四人の大人たちが全員、答えに窮する。
青銅聖闘士だった十代の頃から、アラサーと呼ばれる年齢になった昨今まで、氷河はもてない男だったわけではないが、もてる男だったわけでもない。
彼は、非の打ちどころのない容姿を持ち、親しくなりすぎさえしなければ、寡黙で 所作も美しく、滅多に感情的になることもない、いわゆる“いい男”(と誤認されかがちな男)だった。
何も知らずに、あるいは 上辺だけを見て、氷河に好意を持つ女性は、これまで 大勢いたのだ。
しかし、誰もが 怖がって、あるいは 尻込みして、もしくは 直感的に危険を察知して、積極的に氷河に近付くことまではしなかった

そういう状況を、『もてた』というのか。やはり、『もてなかった』というべきか。
これは判断の難しい問題である。
もっとも、今 現在、真に問題なのは、氷河が もてたか、もてなかったかということではない。
むしろ、そんなことは どうでもいいことだった。
問題は、事実はどうだったのかということではなく、ナターシャに どう答えるかということなのだ。
『氷河はもてなかった』と言えば、ナターシャはがっかりするだろう。
しかし、『もてた』と言うのは癪なのだ。主に星矢が。

氷河は もてたか、もてなかったか。
この超難問への答えは、氷河当人から提示された。
「俺は、誰かに もてたことはない。そもそも 好きな相手にもてるのでなければ、もてても全く 嬉しくないからな。俺は、瞬とナターシャにだけ もてていればいいんだ」
氷河のその答えは、もてる男としても、もてない男としても、100点満点、評価Aの答えだったろう。
氷河の答えを聞いた途端、パパが もてなかったことなど、ナターシャにはどうでもいいことになってしまったのだから。

「それなら、パパはいつでもナターシャに もてもてダヨ!」
熱烈なナターシャの愛の言葉に送られて、この日、氷河は ご機嫌で出勤することになったのだった。






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