「どうすれば、ナターシャは パパの嫁さんになれるカナ?」
パパとマーマがいない夜。
今夜のナターシャのお喋りのテーマは、もちろん それだった。
リコちゃんと お友達になるまでは、それは できないことと思い込み、『パパの娘は パパのお嫁さんにはなれないのだ』と、素直に受け入れていたこと。
これまでは、毎日 パパと一緒にいられるので、頑張ってパパのお嫁さんになる必要はないと思っていたが、いつ 自分の身の上にリコちゃんと同じ運命が降ってこないとも限らない。
パパのお嫁さんになる方法を勉強しておくことは、いざという時の備えになるに違いない。
ナターシャは、そういう考えに至ったようだった。

「ふーん。じゃあ、そのリコちゃんって子は、離れ離れになったパパと もう一度 一緒に暮らせるようになりたいから、パパのお嫁さんになりたいって言ってるのか」
「ウン。リコちゃんは、シャッキンは駄目ダヨって、いつも言ってる。シャッキンができると、パパとママの仲が悪くなって、毎日 喧嘩ばっかりするようになるんだって。ナターシャ、びっくりダヨ。リコちゃんちは、ママがすぐに機嫌が悪くなるんだって。ナターシャのマーマは いつもにこにこしてるのに」

コーナーソファの角の席にナターシャ、右手に星矢、左手に紫龍。
3、4歳の幼女たちが、日々 公園で、まさか リコンとシャッキンの是非について話し合っていたとは。
現実世界の、なんと世知辛いことか。
ナターシャの右と左で、ナターシャの頭上越しに、星矢と紫龍は視線を見合わせることになったのである。
「まあ、瞬は絶対に借金なんか作らないし、氷河にも作らせないからな」
「マーマはパパよりカセギがイイから?」
「それもあるが、瞬は 氷河にもナターシャにも無駄使いをさせないだろう?」
「……ウン」

それは、ナターシャも よく知っている。
身に染みて知っている。
ナターシャが欲しいと言えば、パパは何でも買ってくれるが、マーマはそうはいかない。
とはいえ、マーマがいない時に、マーマに内緒で洋服や玩具を買うと、それは大抵 失敗するのだ。
マーマの“ОK”をもらわずに買った服は、着にくかったり動きにくかったりすることが多くて、繰り返し着ることができないし、マーマの“ОK”をもらわずに買った玩具は、大抵 2、3日で飽きてしまう。
多分 それが無駄使いということなのだと、ナターシャも この頃は 段々 わかるようになってきていた。

「俺たちはさ、孤児院育ちで、どんな貧乏生活も極限生活も平気だけど、城戸邸で暮らしてた時期も長いから、金に糸目をつけない超金持ち生活にも慣れてる。ある意味、金銭感覚が滅茶苦茶なんだ――お小遣いの管理ができない。氷河なんか、仕事も水商売だし」
「水商売? パパが売ってるのは、お水じゃなく、綺麗な お酒ダヨ」
「いや、水商売というのは……そうだな。店に人気があれば、水が流れ込んでくるように金を持った客がやってきて じゃぶじゃぶ儲かるが、人気がないと 川や海が干上がるように、1円も儲からない。そんなふうに いい時はいいが、悪い時は全然駄目な、不安定な仕事のことをいうんだ」
「ふぅん」
「その点、医者というのは、水ではなく大地、地面だ。人気にも天気にも左右されないから、安定して稼ぎがいい。医者になるための勉強をするには、すごく金がかかるんだが、瞬は それを自分一人で稼いだ実績もある。患者から治療費の相談を受けることもあるそうだから、瞬は金銭面のことは しっかりしているんだ」
「ウン」

紫龍にマーマのことを説明されると、どんな心配もいらないような気になって安心する。
そして、それとは対照的に、
「氷河の方は、そのリコちゃんのパパみたいに、何かの弾みで借金まみれになることもありそうだもんな。それで、飯代が足りなくなって、部屋代も払えなくなって、部屋を追い出されて、公園の隅か 橋の下で暮らすことになるんだ」
「エ……」
星矢にパパのことを語られると、それもまた当たっているような気がして、ナターシャは どんどん心配な気持ちが募ってきてしまうのだ。

「デ……デモ、シャッキンを作っても、パパはとっても優しいヨ。ナターシャは、パパがいてくれるなら、ご飯は少しでもいいヨ。おうちを追い出されたら、公園の土管くぐりで、キャンプするんダヨ!」
それでも、リコちゃんのように パパと会えなくなるよりは ずっといいと思う。
ナターシャが嫌なのは、シャッキンではなく、あくまで “パパと一緒にいられなくなること”だった。
「でもさ、ナターシャ。あったかい家の中で、氷河と瞬と一緒に、美味しい ご飯も ちゃんと食べれて、綺麗な服も着れてるのが、いちばんいいだろ」
「ウン」
それはそうである。
それは もちろん、そうだった。

「パパが無駄使いして、シャッキンすると、おうちもなくなるの?」
「瞬がいれば、大丈夫だって」
『瞬がいれば大丈夫』
それが、この話し合いの結論。
ナターシャは ほうっと長い息をついて、ソファの背もたれに身体を沈めたのである。
とにかく、シャッキンを作らないことが、何より大事。
リコちゃんがパパと一緒にいられなくなったのも、リコちゃんがパパのお嫁さんになれないのも、すべてはシャッキンのせいなのだ。

「パパはシャッキンを作りやすいタイプだから、ナターシャはパパのお嫁さんになれないんダネ……」
よくないことの原因は すべてシャッキン。
よくないことの原因は いつもシャッキン。
ナターシャが最終的に辿り着いた残酷な結論は、だが、驚くほど あっさり、星矢によって引っくり返された。
「いや、それとこれとは話が別だろ。ナターシャが氷河のオヨメサンになれないのは、借金のせいじゃない」
しょんぼりと肩を落として呟いたナターシャの最終結論を、星矢は、
「瞬に会ったら、氷河はもう瞬のもんなんだよ」
と、言って否定してくれたのだ。

「エ、ドーシテ?」
と、ナターシャは問い返した。
当然、問い返した。
すべてはシャッキンのせいだと思って、(借金もないのに)涙を呑んでパパのお嫁さんになることを諦めようとしたのに、ナターシャがパパのお嫁さんになれないことに、実はシャッキンは何の関係もなかったとは。
では、これまでの話し合いは いったい何だったのかと、ナターシャが思うのは当然のことである。
星矢の答えは、だが、
「ドーシテも何も、言葉通り、瞬に会ったら、氷河はもう瞬のものなんだよ」
で、変わることはなかった。

「ガキの頃、氷河は、氷河のマーマをなくして、一人ぽっちになって、生きてることに 夢も希望も意味も見い出せなくなってた。そんな時に 瞬に出会って、氷河は 生きる気力を取り戻したんだ。マーマがいなくなっても、マーマ以外にも、この世界には、自分に優しくしてくれる人がいるし、自分を愛してくれる人はいるって、瞬に出会って、氷河は思うことができるようになったんだよ」
「ン……」
『瞬がいないと、俺は生きていられない』
それが、ナターシャのパパの口癖だった。

「氷河にとって、瞬との出会いは 運命の出会いで、氷河にとって、瞬は運命の人だ。瞬がいる限り、氷河はオヨメサンなんかいらないんだよ。瞬が氷河に会わないように 運命を変えられたら、ナターシャが氷河のオヨメサンになる可能性も生まれるかもしれないが、氷河はもう、瞬に出会っちまったからな。ナターシャが氷河のオヨメサンになるのは無理だ。氷河の運命は、もう20年以上前に決まっちまってたんだ」

人間には、自分の見たいもの(だけ)を見、自分の聞きたいこと(だけ)を聞く傾向がある。
今日のナターシャが そうだった――かもしれない。
「パパとマーマが会わないように、運命を変えれば――」
そうすれば、ナターシャは、パパとずっと一緒にいられる。
『パパに会いたいよ。ナターシャちゃん』
リコちゃんの悲しそうな瞳、声。
パパと一緒にいられなくなったら、きっと自分は寂しくて死んでしまうだろう――。
様々な思いが、ナターシャの中で渦巻き始めていた。

「おーい、ナターシャーっ! 冷蔵庫にブドウのゼリーがあるけど、これ、食ってもいいやつかーっ!」
冷蔵庫の中に食後のデザートを見付けた星矢が、浮かれた声で訪ねてくる。
「ナターシャはダイエット中だから、ナターシャの分も食べていいヨ!」
ブドウのゼリーより、パパの方が大事。
「ダイエットなんか必要ないだろ、ナターシャ、おまえ。んなこと言ったら、瞬に叱られるぞ」
そんなことを言いながら、ナターシャの分には手をつけず、紫龍の分をもらうのが、星矢なりの大人の振舞いらしい。

だが、星矢の大人の振舞いにもかかわらず、結局 ナターシャは デザートには手をつけなかった。
パパとマーマが出会わないようにする方法を考えるのに忙しかったから。






【next】