「おまえ、どこから入り込んだんだ !? 」 背後から近付いた巨大タコの影が、ナターシャの小さな身体を覆い尽くす。 「きゃーっ!」 ナターシャは、口から心臓が飛び出そうなほど驚いた。 実際に口から出たのは心臓ではなく、甲高い声の悲鳴で、巨大タコは その悲鳴が想定外だったのか、一瞬 怯む様子を見せた。 その隙に、ナターシャが 素早く走って、雪柳の茂みの中に逃げ込む。 「今の誰だ? あんな子、いたか」 「ひらひらのスカートを穿いてたよ。女の子なんだから、沙織さんのお客様なんじゃないかな」 薄紅色のひらひらのミディ丈のスカート。 ぴかぴかの紅色の靴。 そんなものを身に着けた女の子が、守ってくれる親のない孤児のはずがない。 瞬と星矢は巨大タコ(辰巳)に見付からないように、気配を消して、見知らぬ少女が しゃがんで身を潜めている雪柳の茂みの中に 潜り込んでいった。 「君は沙織お嬢様のお客様? 迷子になったの?」 瞬が小さな声で尋ねたのは、もし彼女が 沙織お嬢様の友達であったなら、『おまえらごときが、このお屋敷のお客様と口をきいてはならん』という辰巳の命令に違反することになるので、その事実を 辰巳に知られないようにするため。 そして、もし彼女が招待客ならぬ侵入者であったなら、彼女が辰巳に見付からないようにするため、だった。 どちらにしても、辰巳対策である。 薄紅色のワンピースの少女は、ぷるぷると首を横に振った。 「違うノ。ナターシャ、今日は沙織サンに お招きされてないの」 「えっ。オマネキされてないってことは、じゃあ、おまえ、まじで こっそり この屋敷に忍び込んだのかよ? すげー。塀の上の高圧電流をどうやって やりすごしたんだ !? おまえ、忍者か何かか?」 声のボリュームを下げるのを忘れている星矢の唇の前に、瞬が人差し指を立てる。 星矢は、慌てた様子で無言で頷いた。 「忍者ではないと思うよ。近所の他のお屋敷の子でしょう。城戸邸に車を入れるために門を開けた時、普通に歩いて 庭に入ってこれたんじゃないかな。逃げる子供には目を光らせていても、こんな小さな女の子が入り込むなんてことは想定外のことだから、警備の人も気付かなかったんでしょう」 「そっか。子供を逃がすのは まずいけど、入ってくる子供は そのまま捕まえときゃいいだけの話だもんな」 「やだやだ、捕まりたくない」 城戸邸に集められた大勢の子供たちが皆、聖闘士になるための つらい修行に挑むべく、ばらばらに世界各国を送られたことを、ナターシャはパパたちから聞いて知っていた。 修行のつらさ、厳しさより、皆と離れ離れにされたことが とてもつらく寂しかったと、いつも にこにこしているマーマが悲しそうに言っていた。 ナターシャは怖くて、震え上がってしまったのである。 小さなマーマが にっこり笑って、そんなナターシャの手を取る。 「大丈夫。きっと逃がしてあげるよ」 雪柳の花の茂みの向こうには 小手毬の花の茂み。 大人のマーマは何でも知っていて頼りになるが、小さなマーマは優しくて安心できる。 小さなマーマに『大丈夫』と言われて、ナターシャは、巨大タコに襲われかけた恐怖が薄らぎ、どきどきしていた心臓も少しずつ落ち着いてきた。 このマーマに出会ったから、パパは自分が生きることには意味があると思うことができるようになったのだ。 このマーマに出会わなかったら、パパはどんな大人になっていたのだろう――。 「あの……あの……ナターシャは……」 「ナターシャちゃんっていうの? 怖がらなくていいんだよ」 「う……うん……」 さっき ナターシャを掴まえようとしていた巨大タコは、未来の城戸邸でも時々 会う辰巳じいじである。 未来でも怖い顔をしているが、ナターシャは これまで ただの一度も 彼を怖いと感じたことはなかった。 パパとマーマが、いつもナターシャの側にいてくれたから。 さっきは、一人でいる時に襲われ(?)かけたから、怖くてならなかったのだ。 だが、もう怖くない。 小さいけれど、マーマが側にいてくれるから。 「綺麗な お洋服が ちょっと汚れちゃったね。土だから、しみにはならないと思うけど……」 「うん……」 「辰巳さんは怖いけど、こんなに小さな女の子をいじめたりはしないよ。大丈夫」 「うん」 さっきから『うん』しか言っていない自分を、いつもの自分らしくないと思う。 いつものナターシャは、もっとお喋りで、会う人は大抵、『明るくて、はきはきした お嬢さんですね』と言って、ナターシャを褒めてくれるのだ。 だが、ナターシャが“明るくて、はきはきしたナターシャ”でいられるのは、パパとマーマがいてくれるから。 パパとマーマが守っていてくれるからだったのだと、ナターシャは 今 初めて気付いた。 パパとマーマがいてくれないと、ナターシャは自分に自信を持つことができない。 俯きがちなナターシャの手を、励ますように、マーマが ぎゅっと握りしめてくれた。 その手が、温かい。 「しばらく、待っててね。今、星矢が様子を見にいったから。あの裏門は、わざと狭く作ってあって、その分、表門より警備が緩いんだよ。多分、今日も、別の施設から子供を乗せたバスがやって来る。その時、あの門が開くから、その隙に、パパとママのところに駆けていけばいい。ナターシャちゃんには、パパとママがいるんでしょう?」 「うん」 「いいね。羨ましい。パパやママと仲良くしてね。僕たちには、パパもママもいないんだ」 「ご……ごめんなさい」 やっと『うん』以外の言葉が出てきたと思ったら、『ごめんなさい』。 マーマはナターシャの顔を覗き込み、沈んでいるナターシャの気持ちを掬いあげるように やわらかな微笑を作った。 「どうして ナターシャちゃんが謝るの。ナターシャちゃんにパパとママがいることは、とてもいいことだよ。僕たちには パパとママはいないけど――パパとママの代わりに、僕たちには僕たちがいる。助け合い、支え合う、仲間がいるから、僕たちは パパとママがいなくても、ちっとも寂しくないんだよ」 パパとマーマがいない分、パパたち五人が仲良しなことは、ナターシャも知っていた。 パパとマーマとナターシャとは違い、同じ家で暮らしてはおらず、いつも一緒にいるわけではない。会うたび、喧嘩もするのに、パパたち五人は特別に強い力で繋がっているのだ。 (ナターシャには、パパとマーマがいて、ナターシャを守ってくれる) (パパとマーマたちには――) 仲間たちに会えなかったら、きっとパパは寂しくて 生きていられないだろう。 パパが生きていくために――パパには、お嫁さんより 仲間が必要なのだ。 |