着替えを済ませて、顔を洗って、朝ご飯を食べて、歯を磨いて、髪を梳かしてから――家を出ると、外は いい天気だった。
南東の方角の彼方に、紫色の雲の塊りがあるのだが、それらの雲の隙間から光の柱が地上に降り注いでいる。

「ナターシャちゃん、見て。嵐どころか、天使の梯子だ。きっといいことがあるよ」
「天使の梯子?」
「そう。雲の間から光の柱が地上に伸びてるみたいでしょう? あれを天使の梯子っていうんだよ。あの光を伝って、天使が天の国から 人間の世界に下りてきて、いい子にしている子に祝福をくれる。自然が作るラッキーアイテムだよ。
「天使が下りてくるの?」
「そう言われてるんだ。姿は見えないけど、きっとナターシャちゃんに幸せがくるようにって、天使が祈ってくれているよ」
「ふうん、そーなんだー」

これ以上 悪いことさえ起きなければ、それだけで十分。
そういう気持ちでいたナターシャは、天使の祈りの効力に多大な期待は抱いていなかったのだが、ラッキーアイテムの効力はすぐに現れた。

ナターシャたちが持参したワンピースとボレロのシミを見たクリーニング屋のおじさんは 余裕の笑みで――もとい、余裕がありすぎるのか、おじさんは 笑みすら見せなかった。
「今朝 零したジュースのシミなんですけど、取れるでしょうか?」
「ナターシャ、来週のお出掛けに着て行きたいノ。綺麗になる?」
パパに抱っこしてもらったナターシャに心配顔で 尋ねられて初めて、クリーニング屋のおじさんは、プロの無表情を消し去り、ナターシャのために余裕の笑みを作って見せてくれた。

「ああ。大丈夫。布の奥まで沁み込む前に、持ってきてくれてよかった。ジュースを零す前より綺麗にしてあげるよ」
「ほんと? ヨカッター!」
パパに抱っこされたままで万歳をして、パパに抱っこされたままで、おじさんにお辞儀をする。
「ナターシャのワンピースを、よろしく お願いシマス!」
「はい。お預かりします」

ナターシャたちがクリーニング店を出る頃には、プロの無表情おじさんは すっかり にこにこおじさんになっていた。
これは、顔を洗って、髪を梳かして、“可愛いナターシャ”になってから やってきたのがよかったに違いない。
マーマの忠告には 従った方がいいのだと、ナターシャは今更ながらのことを、改めて自分に言い聞かせたのだった。

「パパ、マーマ。ナターシャのワンピース、綺麗になるって!」
「よかったね。失敗しても、引きこもっていないで、すぐに対処すれば大丈夫なんだよ。病気や怪我もそう。落ち込んで、ぐずぐずしていると、うまくいくものも、うまくいかなくなる。治る病気や怪我も手遅れになっちゃうんだ」
「うん」
マーマの教えは いつも正しく、とても役に立つ。
ナターシャは、マーマの言葉を胸の奥と脳内に刻みつけ、こっくり頷いた。

ワンピースがこの調子なら。
「お靴も大丈夫かなァ?」
クリーニング店を出たナターシャたちが次に向かったのは、駅前にある靴の修理屋さん。
それは とても間口の狭い建物で、ナターシャは 初めて入る店だった。
店員は若い男性が一人。
棚には、色々な靴やブーツやカバンが並べられている。
カウンターの上に瞬がナターシャの靴を置くと、それを見た店員の青年は、無言で ふんふん頷き出した。

「ナターシャのお気に入りの お靴なの。大切な大切な お靴なの。なのに、傷がついちゃって、ナターシャ、ショックで、お外に出るのをやめようと思ったくらい。でも、マーマが、靴の修理屋さんに頼めば、きっと綺麗に直してくれるって、教えてくれたんダヨ」
受付カウンターは ナターシャの頭の上にあるので、ここでもパパに抱っこしてもらう。
ナターシャの必死の訴えを聞くと、修理屋のお兄さんは、無言で ふんふんするのをやめた。
靴の修理屋だけあって、靴を大事にする人間に、彼は好意を抱いたらしい。

「これは――コンクリートかアスファルトに擦ってしまったんだね。よくある傷だ。大丈夫。ナターシャちゃんのお気に入りの靴は、ちゃんと綺麗になるよ。安心して」
ナターシャに そう言いながら、修理屋さんのお兄さんは、靴の修理前後の写真パネルを見せてくれた。
ナターシャの靴のそれより ひどい傷が綺麗になくなっているビフォーアフターの写真のパネルである。

「ヤッター!」
ナターシャは、ここでも万歳である。
しかも、靴は今日中に直るらしい。
つい2時間前には、暗く引きこもりの決意をさえ語っていたナターシャが、今では すっかり元通り――否、もしかしたら、昨日 薔薇色のワンピースを買ってもらった時より元気になっていたかもしれなかった。

靴の修理屋を出て、公園に向かうと、ブーメランの形をした小さな鳥が、素早く空を横切って飛ぶのに出会った。
「もうツバメか。早いな」
「今年は暖冬だったからね」
氷河に そう応じてから、瞬は、腰を屈めて ナターシャの顔を覗き込んだ。
「天使の梯子の次は、ツバメさんだ。ツバメは 縁起がいい鳥なんだよ。今は、マンションやビルが多くて、巣を作ることが少なくなってきているけど、ツバメは 本来、人が住んでいる家の軒下に巣を作る鳥なんだ。それも、災害に見舞われない 安全な家の軒下にだけ。だから、ツバメは 平和と繁栄の象徴と言われている。こんなに早くツバメさんに出会えるなんて、ナターシャちゃんは これから いいことにばかり出会うに違いないよ」

「ほんと?」
「ほんと、ほんと。もちろん、いいことは、四つ葉のクローバーと同じで、自分で頑張って探さなきゃ、見付からないけどね」
「ウン。おうちの中に引きこもってちゃ、いいことには出会えないヨ。ナターシャ、引きこもりしないで、お外に出て よかったヨ。引きこもってたら、ワンピースのシミは取れなかったし、お靴の傷も消せなかったヨ」

ナターシャは、本当に理解が早い。
それは 物事を正しく理解しようとするナターシャの意欲の たまものであり、同時に、人の言葉や事実を受け入れる心の素直さあってのこと。
その上、ナターシャは努力家である。
せっかく お外に出たのだからと、光が丘公園の自然観察ゾーンに行き、30分をかけて、ナターシャは 四つ葉のクローバーを見付けてみせた。
ナターシャの歳で、30分間、叶うかどうか全く わからない一つの目標のために努力を続けられるのは、それだけで 立派なものだろう。

「すごい。四つ葉のクローバーまで見付けるなんて、いいことが起きる印ばかりだ」
「今 ナターシャが おみくじを引けば、間違いなく大吉が出るな。お茶をいれれば、茶柱も立ちそうだ」
「チャバシラってナニー?」
話の流れから、それが縁起のいい何かなのだということは察したらしいが、茶柱を見る機会がないナターシャには、『日本茶の、葉っぱではなく茎』と言われても、茶柱のイメージは掴みにくく、“茶柱が立っている”イメージは 更に掴みにくいもののようだった。
「番茶や茎茶の安物でないと、茶柱自体が紛れ込んでいないからな」
「そういう お茶は、お客様には出せないから、買わないしね。ナターシャちゃんには、麦茶の方が身体にいいし」

理解が早いナターシャは、茶柱に出会うことの難しさを、パパとマーマのやりとりで理解してくれたようだった。
素直な心で(?)茶柱に代わる代替案を提示してくる。
「今日はケーキ屋さんじゃなく、あんみつ屋さんに行くヨ。ナターシャは、イチゴあんみつを食べるんダヨ」
『きっと いいことが起こる』と言った手前もあって、瞬と氷河は、ナターシャの希望を叶えてやらないわけにはいかなかったのである。






【next】