私たちがナターシャちゃんのおうちに来て10日目の昼下がり。 その日、その時、ナターシャちゃんのマーマは お仕事に行ってて、ナターシャちゃんは パパとお昼ご飯を食べ終えて、公園に遊びに行く準備をしてた。 そのはずだったんだけど。 急に、 「ナターシャ、すまん。いい子にしてろ」 って言って、ナターシャちゃんのパパの姿が消えた。 ほんとに――本当に、一瞬で、ぱっと消えた。 私たち、何が起こったのか、すぐには わからなかった。 時間が経っても わからなかった。 人間が、一瞬で、煙みたいに消えちゃうなんて、そんなことあるはずないって、私たちは知ってたから。 でも、ナターシャちゃんのパパは消えた。 そして、ナターシャちゃんは、おうちに一人きりで取り残されて――。 こんなこと、初めて。 ナターシャちゃんのパパとマーマは、いつもナターシャちゃんと一緒で、必ず パパとマーマのどちらかがナターシャちゃんの側にいた。 お仕事で 二人とも ナターシャちゃんと一緒にいられない時は、星矢さんとか、紫龍さんとか、春麗さんとか、とにかく大人と一緒だった。 ナターシャちゃんは人間の子供で――植物でいうなら、本葉が出る前の双葉、鳥でいうなら、卵から孵ったばかりのヒナ、昆虫でいうなら、成虫になる前のイモ虫、犬猫でいうなら、生まれたばかりで目が開いていない子犬や子猫。 大人に守られていないと、命だって危険にさらされるほど 頼りない、小さな子供なのに。 実際、これまで、ナターシャちゃんが一人きりになるのは、夜、ナターシャちゃんのお部屋で眠る時だけだったのに。 私たち、なんだか とっても不安になって、身体を震わせたの。 私たちの不安に気付いたのかな。ナターシャちゃんは、とことこと私たちのいるところにやってきて、ナターシャちゃんのパパが消えた訳を、私たちに教えてくれた。 何だか すごく、ぎこちない笑顔を作って。 「エルピスちゃん、パパが急に消えて びっくりした? ナターシャのパパとマーマは正義の味方なんダヨ。それで、地上の平和を守るために戦ってるノ。地上の平和を乱す敵が、世界のどこかに 現われたみたい。パパは、そこに光速で飛んで行ったんダヨ。きっと、マーマもそこに行ってる。だから、びっくりしなくていいヨ。心配しないデ。安心シテ」 ナターシャちゃんに そう言われて、これが初めてのことじゃないんだって、私たちにはわかった。 だから、ナターシャちゃんは、パパの『いい子にしてろ』だけで、事情を察することができたのね。 よくあることじゃなくても、時々あることで、慣れてたから。 地上の平和とか、戦いとか、敵とか、よく意味はわからなかったけど、ナターシャちゃんのパパが消えたのが これが初めてじゃないってことに、私たちは ちょっとだけ安心した。 「ナターシャは、いい子で パパとマーマの帰りを待ってるヨ。ナターシャのパパとマーマは、ナターシャが生きてる世界を守るために戦ってくれてるんだもん。ナターシャのために命をかけて戦ってくれてるんだもん」 ナターシャちゃん……。 何か よくわからないけど、ナターシャちゃんは すごい。 一人ではエサも見付けられない小さな子供なのに、たった一人で残されて、心細くてたまらないに決まってるのに、『いい子で待ってる』なんて。 『ナターシャちゃんは、とっても立派よ』って、褒めてあげたくて、私たちは精一杯の笑顔を作った。 そんな私たちを見て、ナターシャちゃんは笑ってくれて――多分、ナターシャちゃんは笑おうとしたんだと思う。 唇が笑顔の形になったもの。 なのに――なのに、ナターシャちゃんは、笑顔の形で 私たちを見詰めたまま、目から涙をぽろぽろ零し出した。 ナターシャちゃんは、泣いてた。 私たちに、『心配しないで』って言ったナターシャちゃんが。 ナターシャちゃん、ナターシャちゃん、ナターシャちゃん。 『心配しないで』って、私たちに言いながら、ナターシャちゃんは本当は その言葉を自分に言い聞かせていたのね――。 「エルピスちゃん……。ナターシャ、心配ダヨ。ナターシャ、ナターシャのパパとマーマが強いことは知ってる。ナターシャのパパとマーマは すごく強いんダヨ。だけど、どんなに強くたって、負けちゃうことはあるでショ。パパとマーマが負けちゃったらどうしよう。敵に倒されちゃったら、どうしよう。パパとマーマが ナターシャのところに帰ってきてくれなかったら、ナターシャは……ナターシャは……」 私たちが初めて見る、ナターシャちゃんの悲しみの涙。 これまでにも ナターシャちゃんは、悔しかったり、転んで痛かったりして 泣いたことはあったけど、ナターシャちゃんの こんな悲しい涙を見るのは初めて。 ナターシャちゃんは、ナターシャちゃんのパパとマーマが大好きだから、パパとマーマに もう会えなくなるかもしれないって想像しただけで、別れがつらいのよね。 ナターシャちゃん。 ナターシャちゃんの その気持ちが、私たちには痛いほど よくわかるわ。 私たちも、ナターシャちゃんが大好きだから、想像しただけで、ナターシャちゃんとの別れが つらいから。 私たちが何のために生きているのか、ナターシャちゃんは きっと知ってる。 知らなくても、心のどこかで感じ取ってくれてると思う。 だって、初めて出会った時から 今まで、ナターシャちゃんは、私たちに何度も何度も『綺麗』『可愛い』って言ってくれたもの。 私たちは、『綺麗』『可愛い』って言ってもらうために生きてる。 私たちを見る人の心の中に、『綺麗』『可愛い』っていう気持ちを生ませて、その人の心を力付け、慰めるために。 なのに今、私たちは、どんなに頑張って綺麗な姿を作って見せても、ナターシャちゃんの心を力付けてあげることも、慰めてあげることもできない。 今の私たちにできることは、ナターシャちゃんと一緒に ナターシャちゃんと同じ不安に耐えることだけ。 つらい運命に耐えてるのは、私たちだけじゃない。 こんなに小さなナターシャちゃんですら、悲しい涙を知っている。 私たちは、それが とても切なくて――そして、これまでよりずっと ナターシャちゃんを好きになった。 「ナターシャちゃんっ」 ナターシャちゃんのパパの姿が消えてから1時間くらい経った頃、ナターシャちゃんのおうちに 春麗さんが来てくれた。 「遅くなって、ごめんなさい。ナターシャちゃん、大丈夫だった?」 地上の平和を乱す敵が現われて、ナターシャちゃんのパパとマーマが敵と戦いに行った時には、春麗さんが来てくれる段取りになっていたのね、きっと。 ナターシャちゃんのパパとマーマは、万一のことを、ちゃんと考えてたんだ。 「うん。ナターシャは大丈夫ダヨ。エルピスちゃんが一緒にいてくれたから、ナターシャは大丈夫だったヨ」 春麗さんに そう言って頷くナターシャちゃんは、ちゃんとした笑顔。 春麗さんに涙を見せちゃいけないって思っているのね、きっと。 その上、ナターシャちゃんたら、『エルピスちゃんが一緒にいてくれたから』って。 嘘でも、嬉しい。 本当は、私たち、何の力にもなれてなくて――だから、それは間違いなく嘘なんだけど――それでも私たちは、私たちが健気なナターシャちゃんの側にいられることが嬉しくてならなかった。 「ナターシャちゃん、瞬さんたちが帰ってくるまで、おばちゃんのおうちに お泊りね」 「ウン」 ナターシャちゃんは、春麗さんのおうちに 私たちも連れていってくれた。 お泊りは、幸い、一晩だけで済んで、翌日の午前中、ナターシャちゃんのパパとマーマは 元気な姿で、ナターシャちゃんを迎えに来てくれた。 「パパ! マーマっ!」 それまで泣かずに大人しく絵本を読んでいたのに、パパとマーマの『ただいま』を聞くと、ナターシャちゃんは、手にしていた絵本を放り出して、パパに飛びつき、しがみついて、わんわん泣き出した。 ナターシャちゃんのパパとマーマは、ちゃんと無事にナターシャちゃんの許に帰ってきてくれたのに。 春麗さん(と紫龍さん)のおうちで、春麗さんを困らせないために、ナターシャちゃんは 泣きたいのをずっと我慢していたから。 ナターシャちゃんのパパとマーマが無事に帰ってきてくれたことが嬉しくて――そんなこと できるわけもないのに、私たちもナターシャちゃんと一緒に泣きそうになったわ。 |