瞬の正体を探ることは諦めて――会長と副会長は、瞬を、クラブハウスの地下フロアにあるバーカウンター付き談話室に案内してくれた。 そこは、クラブの会員しか入れないフロアらしい。 1階にあったカフェラウンジには女性の姿もあったが――というより、利用客の半数が女性だったが――こちらは、見事に男性ばかりである。 ダークカラーのスーツをまとった紳士たちが、10組ほどある、ゆったりしたテーブル席に、各々 くつろいだ様子で腰掛けていた。 そのフロアの、バーカウンターの横が、スピーチする者が立つ定位置のようだった。 会長と副会長が、瞬を伴って、その場所に立つ。 演台やマイクが準備されていないのは、大声でうるさく騒ぐ男は紳士ではなく、ここには紳士しかいないから――ということなのだろう。 実際に、声を張り上げなくても、会長の声は広い談話室の隅々まで届いていた。 「皆に、彼を紹介できることを名誉に思う。新しい仲間だ。名は瞬。彼は、少々 特別なメンバーなので、それ以外のことは何も訊かないでくれたまえ。好奇心が身を滅ぼすこともある」 新入りの会員が、そんなふうに紹介されることは滅多にない―― 十中八九 初めてのことだろう。 会長の行為の不自然を、副会長が、 「何を紹介する必要もないと思うがね。一目瞭然の美しさだ」 という言葉で取り繕った。 そんな 紹介になっていない紹介が行なわれることだけでなく、そもそも 新規の会員が(つまりは、いちばんの下っ端が)そういう特別待遇にあることを示されること自体が、このクラブでは 稀有で奇異な事態だったのだろう。 それまで、幾つかのグループに分かれて歓談していた紳士たちの中から幾人かが、興味深げな目をして 瞬の周りに集まってきたところを見ると。 彼等は 談話室の中央にある最も大きなテーブルを囲むソファの中央の席に瞬を招き、争うように瞬の近くに自分の居場所を確保した。 『好奇心が身を滅ぼすこともある』という忠告に逆らう気概を持つ、比較的 若手のメンバーが10名ほど。 瞬の“一目瞭然の美しさ”は、紹介されなくても(説明してもらわなくても)わかったらしく、彼等は その件については 何も訊いてこなかった。 だが、それ以外のことに関しては、瞬は彼等に質問攻めに会うことになってしまったのである。 彼等は どうやら、『何も訊かないでくれ』という会長の言葉を『自分で当人に訊き出せ』と解釈したようだった。 英国紳士が寡黙で冷静というのは 単なるイメージ。事実とは異なる イメージでしかないらしい。 彼等は おそらく、外面を取り繕うのが非常に上手なのだ(それを一般的には“マナー”と呼ぶのだろう)。 だが、仲間内では――同性の身内しかいない閉じられた場では――彼等は自分たちの軽薄で軽率な好奇心を隠すこともしなかった。 「専攻や卒業年も訊いてはいけませんか」 「あなたではなく、あなたの父君の爵位を尋ねるのなら、問題はありませんよね?」 「生まれは、ロンドンですか?」 「領地はどこか、僕に当てさせてください」 「このクラブに、あなたを知る会員が何人か いるでしょう?」 彼等の質問に、 『駄目です』 『駄目です』 『いいえ』 『いやです』 『いません』 と答えたら、彼等はどんな顔をすることになったのか。 人を不快にすることが瞬の目的ではなかったので、瞬は彼等の質問に答えることをしなかった。 代わりに、沙織に用意された言葉を手渡す。 「オックスフォードのマートンカレッジに籍を置いたという設定になっています」 「設定に?」 若い紳士たち(といっても、30歳以上である)は、瞬の その言葉に 一斉に笑いさざめいた。 瞬を胡散臭く感じたのか、その秘密主義に“特別”感を 一層 強くしたのか、それは瞬には わからなかった。 オックスフォード大学やケンブリッジ大学では、貴族はありふれた存在で、他国の王族や君主の子弟も多く留学してきている。 特別な人間しか在籍していないような世界で、真に“特別”な存在とは どういう人間を指すのか。 それは、選ばれた紳士たちに“特別”と臆断されたらしい瞬自身にも わからなかった。 瞬たちが着いている大テーブルの周辺のテーブルでは、新入りと若手の歓談ぶり(?)を、中堅古参会員たちが品評していた。 (聖闘士である)瞬の耳には当然、彼等の発言がすべて届く。 「新参を取り巻く先達たち――とは、珍しい現象だ。普通は、新入りの方が 取り入りたい先輩の ご機嫌伺いに励むのに」 「まるで絶世の美女が現われたかのようだ。美貌は、地位や身分を凌駕するということかもしれせんな」 「絶世の美少女でしょう」 「確かに。あれは どう見ても、ジェームズ・ボンドに群がる美女たちの図というより、スカーレット・オハラの機嫌取りに励むアメリカ貴族の崇拝者たちの図だ」 「アメリカに貴族がいたことなどありませんよ。故国を離れて アメリカに渡った時点で、その者たちは ただの移民にすぎない」 オックスフォード・アンド・ケンブリッジ・クラブの中堅以上の会員たちは、英国貴族としての自負心、エリート意識が特に強いらしい。 ジェームズ・ボンドはオックスフォード出身なので まだしも、スカーレット・オハラと彼女の取り巻きたちを、彼等は完全に自分たちの下位に見ていた。 ひところ日本では、“上級国民”という言葉が非難や侮辱のために用いられ流行ったが、英国では、上流階級、中流階級、労働者階級が はっきりと分けられ、国民全員がその身分制を認めている。 『上流』『貴族』『エリート』は差別用語ではなく、現に存在するものを区別するための言葉にすぎない。 彼等は、自分たちが上流階級の人間であることを自覚し、また、その事実に誇りを持っているのだ。 瞬の正体を探ろうとして苦戦している若手取り巻きグループを離脱したメンバーの一人が、品評グループの一つに合流して 戦況報告を始めたのは、彼が若手から中堅への過渡的立場にいるからではなく、最も新参の伝令係だから――のようだった。 そんな下っ端にも、エリートの矜持が感じ取れる。 「何も紹介されなくても、彼が下賤の者でないことはわかりますよ。あの瞳、眼差し、隙のない身のこなし。僕は 上流階級の家に生まれ、エリートになるための教育を受け、実際に ある程度の成果を収めることができた人間だ。それだけの人間で、ロイヤルでも、天才でもない。だが、ロイヤルや天才のオーラを感じ取る力はある。彼は、ロイヤルか天才、もしくは それに類する何かですよ。ただの美少女じゃない」 品評員席にいた中堅古参メンバーたちは、彼の報告を興味深げに聞き、それから、彼等は 改めて 瞬の上に探るような視線を投げてきた。 見る目があるのか、買い被りなのか――。 瞬自身は 自分を特別な人間だと思ったことはなく、だが 同時に、普通の人間だと思ってもいなかったので――このクラブのメンバーの眼識のレベルをどう判断すべきか、瞬は、迷うことになったのである。 楕円形に組まれているソファの 最奥中央に、瞬は座らされていた。 その前後左右に、まるで瞬の移動を封じるように、紳士方が 群がり座している。 その上、他テーブルに着いている紳士たちから向けられる好奇の目。 逃げ出したいのだが動きを封じられた格好で、さすがに瞬が焦り始めたところに、思いがけない救いの手が差しのべられた。 「さる高貴な方から、瞬様に、特別なカクテルをサービスするよう指示を受けておりますので、お一人でバーカウンターの方に いらしてください」 労働者階級の人間のはずなのに、上流階級のアクセント。 一目で北方系とわかる彼の金髪が(アジア系もアフリカ系でもないとわかる容姿が)英国の伝統あるジェントルメンズ・クラブへの潜入を容易にしたのかもしれない。 (氷河) 瞬が声に出さずに名を呼ぶと、 (ジェントルメンズ・クラブの会員になることはできなくても、労働者として潜り込むことは容易だった) 同じように、氷河の答えが返ってきた。 たかがバーテンダー(労働者)に主役の姫を奪われても、紳士たちが不満を口にしなかったのは、氷河の意味ありげな伝言と、その場にいる誰よりも優れた氷河の容姿のせいだったろう。 英国人は米国人より肥満を軽蔑している。人に不快を与えない容姿に価値を置いているのだ。 「では、失礼します」 内心 安堵の息をつきまくりで 席を立った瞬を、紳士たちは名残惜しげに 静かに見送ってくれた。 |