第一章  見知らぬ星空






 前を歩いている二人連れに気付くと、絵梨衣の心臓は大きく跳ねあがった。
聖和高校の城戸氷河と雪代【ゆきしろ】瞬。別の高校に通っている絵梨衣でさえ知っている有名人である。
 金髪で背の高い――185センチはある――方が城戸氷河、170そこそこの栗色がかった髪の方が雪代瞬。絵梨衣の通う南高校より30点は偏差値の高い聖和高校で、だが、その頭の良さよりも、むしろ容姿の尋常でないことで名の知れた親友同士。
 その二人が、絵梨衣の前を並んで歩いていたのだ。
 気が強すぎて男に縁がないのを幸い(?)、学校では男嫌いを通している絵梨衣だったが、 それでもこの二人にはときめくものがある。それは、決して大ファンではなくても、目の前に美形アイドル歌手がいたら、ついついサインを求めてしまう一般ピープルの心理に似たものがあった。

 日曜の昼下がり。大通りから一本奥に入った住宅街に、辺りの住人の姿は一つもない。
 六月の空は、梅雨が近いせいかどんよりと重い灰色の雲に覆われていた。
『わりしたがないと、今日の夕食はすき焼きじゃなく水炊きになるわよ』という母親の脅迫に屈して嫌々ながら買い物に出た絵梨衣は、空の色の重苦しさに鬱々としながら、自分の意地汚さに自己嫌悪に陥りかけていたのだが、世の中、何が幸いするかわからない。
(何か突発事故でも起こって、知り合いになったりとかできないかなー。あの二人と話をしたことがあるんだなんて言ったら、クラスの奴ら、それだけで私に一目置くようになるんだけどなー)
 高三にもなって、彼氏どころか好きな男の一人もいないなんて――と、絵梨衣をからかうクラスの連中の驚く顔を思い浮かべ、絵梨衣は我知らず笑いがこみあげてきた。すぐに、その想像の無意味さを悟って、彼女の自己嫌悪はますますひどいものになってしまったが。
 猫の子一匹通らないこの道で、そんな幸運な突発事故など起こりようもない。
 二人は、駅前の本屋からの帰り道らしかった。
 城戸氷河は、絵梨衣も知っている書店の濃いブルーの袋を小脇に抱え、雪代瞬を見降ろすようにして、なにやらお喋りに興じていた。 

 彼らの通う聖和高校は毎年5、60人のT大合格者を出す、横浜でも有名な、否、全国でも有数の私立の進学校である。全国から選りすぐりの秀才たちが集まり、その五分の三が寮に入り、五分の一が学校借り上げのマンション暮らし、残りの五分の一が自宅通学組。
 城戸氷河と雪代瞬はマンション暮らし組で、城戸氷河は静岡出身、雪代瞬の家は東京都内にあると、絵梨衣は聞いていた。
 男に興味のない振りをしている絵梨衣の耳にさえその程度の噂は入ってくるほどに、二人は有名人だった。
(やっぱ、私なんかには理解できないような高尚な話をしてんだろーなー)
 少なくとも、今日の夕食がすき焼きか水炊きか――などという話ではないだろう。絵梨衣はひどく自分が情けなくなり、肩を落として嘆息した。
(みんな、ママのせいよ! 私がすき焼き好きなのも、私が勉強できないのも! ママがもう少し私を利口に生んでくれてれば、今頃は私だって、あの二人と同じ学校に入ってさ、あの二人と並んで高尚な話の一つや二つ、ぶちかませてたはずなんだからっ!)
 たとえ絵梨衣の頭の出来が今より多少良くなっても、聖和は男子校なのだから、それは無理な望みというものなのだが、絵梨衣の憤りは止めようがなかった。
 聖和高校は絵梨衣の自宅から歩いて5、6分のところにある。親が自分をもう少しましに作ってくれていたら、なにも電車で三駅も先の共学校に通わずに済んだのだ――と絵梨衣は思った。娘をましに作ってくれなかったくせに、試験の成績が悪いと、『誰に似たのかしらねぇ』と言わずもがなの小言を言う。どこの家でもそんなものなのだろうと思えば我慢もできるが、親のそんなボヤきとは無縁なのだろう秀才たちの後ろ姿を見ているうちに、絵梨衣の怒りは、自分の前を行く二人連れに向かい始めた。
(顔良くて、頭良くて、きっと性格が滅茶苦茶悪いんだ…!)
 一人で勝手にそう決めつける。
 決めつけてしまうと、少し、絵梨衣の怒りは和らいだ。
(人間って、一長一短あるもんだもの)
 これまた一人で完結し、そして、絵梨衣は僅かに歩を速めた。
 前を行く二人も一長一短のある人間。その"長"の方が気になった。――つまり、もう少し近くで二人の顔を見てみたい、と絵梨衣は思ったのだ。
 急ぎ足で二人の横を通り、追い越し様、有名なその"顔"を窺いみる。絵梨衣には、それは、ちょっとした冒険のように思われた。
 実のところ、絵梨衣は二人の顔を間近で見たことがない。校内では他のクラスの女子が隠し撮りした写真が出回っていたが、男に興味なしのポーズをとっている手前、それを手に取ってまじまじと見入ることは絵梨衣にははばかられたのだ。

 小型車が二台ぎりぎりですれ違える程度の幅しかない道の先に、白いクーペが駐車していた。噂の二人の後ろ5メートルのところにまで接近していた絵梨衣は、この絶妙のロケーションを最大限有効利用しようとして、速度の調節にかかった。
 白いクーペ。その横に二人が通りかかり、右に寄る。そこにほんの少し空いた空間を目指して絵梨衣が突進した時。
 ふいに絵梨衣の左足が、そこにあるはずの地面を見失った――ような気がした。
 緊張のあまり目眩いでも起こしたのかと、絵梨衣は一瞬思った。次に、これは地震だと直感する。
 だが、地震にしては様子がおかしい。
 すぐ目の前にいた雪代瞬が不安そうに眉根を寄せ、城戸氷河を見上げているのが視界に入った。
 突然身体がひどく重くなる。耳鳴りがして、周りの風景がぐにゃりと歪み、そして、絵梨衣は気を失った。







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