「瞬っ! 瞬っ、大丈夫かっ!?」 絵梨衣が意識を取り戻したのは不自然な暑さのせいだったが、はっきりと覚醒したのは、どこか切羽詰まったような人声――男の声のせいだった。 目を開けた途端に、濃い緑の色に押し潰されそうな感覚に襲われる。絵梨衣の周りは、何もかもが緑色だった。少し経ってから、それが植物の――草や木の葉の色だと認めることができたが、認めた途端、これは作り物だと絵梨衣は思った。 それほどに、その緑の色は、絵梨衣が見知っている草木の緑とは異なっていた。 絵梨衣の知っている植物の緑は、どこか灰色がかっていたり、白っぽかったり、黄色が混じったものだったが、今、絵梨衣の周りを覆いつくしている緑は、パレットに落とした緑色の絵の具のように濃く、つややかで、いったいどれだけ強い陽の光を吸い取れば、こんな緑色ができあがるのか見当もつかないほどの鮮やかさを持っていたのだ。 「瞬っ、目を開けろっ」 上体を起こし、声のする方に視線を巡らす。 4、5メートル先に、つい先程まで羨みつつ見詰めていた城戸氷河の背中があった。 城戸氷河は、気を失っているらしい雪代瞬を抱き起こし、親友の名を呼んでいた。城戸氷河の背中の向こうに、雪代瞬の足が見える。 城戸氷河の声があまりに悲痛に響くので、絵梨衣は、雪代瞬が大怪我をしているのかと思ったのだが、どうやらそうでもなかったらしい。 「氷河…?」 雪代瞬の小さな声が聞こえ、その声に安堵の息を洩らしたのか、城戸氷河の背中が微かに揺れた。 「ここ、どこ…? なに? この緑色」 城戸氷河のトーンの低い声とは対照的に、まるで変声期前の子供のような――否、雪代瞬の声はむしろ女声のアルトに似ていた。ハスキーでさえない。 「どこ?」 再び、雪代瞬が問う。頭を押さえながら自力で上体を起こそうとする雪代瞬を右の手で支えながら、城戸氷河が横に首を振る。 「気になってはいるんだが、誰に訊いたらいいのかわからなくて、な」 「交番もなさそうだね」 冗談なのかマジなのか、あまり慌てた様子もなく交わされる二人の会話に、絵梨衣は苛立ちを覚えた。悲痛といってもいいほどの城戸氷河の叫び声を聞かされた後に、怪我一つしていない雪代瞬の姿を見せられたせいもあったろう。そこまで大袈裟に騒ぐのなら、もっと別のことで騒ぐべきだと、絵梨衣が思ったとしても、それは仕方がない。 「なに、落ち着き払ってんのよっ! いったい、ここ、どこなのっ!」 絵梨衣ががなりたてると、城戸氷河が首をかしげつつ振り返る。その横から、雪代瞬がぴょこっと顔を覗かせた。 三人が――正しくは、二人と一人が――しばし言葉もなく見詰め合う。最初に口を開いたのは城戸氷河だった。 「誰だ、おまえ」 やはり、あまり緊張感のない声である。 絵梨衣はすっくとその場に立ちあがり、再び大声で叫んだ。 「相沢絵梨衣、17歳。南高校3年B組、31番よっ」 大声でわめいていれば、この訳のわからない状態に混乱しきっている自分を振り払ってしまえるような気がしたのだ。 興奮している絵梨衣を無視して、城戸氷河が草の上に胡座をかく。絵梨衣と親友とを見比べて、立つべきかそのままでいるべきか悩んでいた雪代瞬は結局その場に座り込み、絵梨衣は――絵梨衣も、仕方がないので二人の前に腰を降ろした。 それを待って、雪代瞬が自己紹介を始める。 「あ、僕、雪代瞬といいます。聖和高校の3年生で、こっちが…」 「城戸氷河だ」 ぶっきらぼうに、城戸氷河も名を名乗った。 名乗られるまでもなく、その名は絵梨衣には既知のものだったのだが。 「相沢…絵梨衣さん? すみませんが、ここ、どこだかわかりますか?」 同学年と知っても、雪代瞬は腰が低い。丁寧な言葉で、彼は絵梨衣に尋ねてきた。 自分たちがどこにいるのか皆目見当がつかないという状況は何も変わっていないのだが、絵梨衣は少しだけ冷静さを取り戻した。自己紹介や交番の有無などより、その言葉こそを絵梨衣は待っていたのだ。そして、その答えを。 「わかんない。私はただ、スーパーに行こうとして道を歩いてただけよ。あなたたちを追い越そうとした途端、急に地震が起きて――ここ、日本なの?」 「日本だとしたら、随分南の方だな。しかし、ありえないぞ。時計が8分しか進んでない」 氷河が素っ気なく答える。温度計がなくても感じとれるほど歴然とした気温の差――が、その答えの根拠だったろう。 「1日と8分ってことは? それだけあったら、どこにだって移動できるでしょ。僕たちが誰かに運ばれたんだとしての話だけど」 「それもなし。1日経ってたら、俺ァ、髭が伸びてるはずだ。さっき触った限りじゃ、そんな感じじゃなかったからな」 「髭…? 氷河、そんなものあったの?」 「あんの」 氷河が瞬を軽く睨み、睨まれた瞬は肩をすくめた。 この状況でそんな軽口を叩いていられるとは、随分な余裕である。それとも、この二人の秀才は、自分たちの成績以外のことには動じないようにできているのだろうか、と絵梨衣は訝った。 「ち…近くの熱帯植物園かどっか…とか…」 自宅の近所にそんなものがなかったことは承知していたのだが、とりあえず絵梨衣は言ってみた。とにかく、納得のいく答えが絵梨衣は欲しかったのだ。 「……上、見ろ」 ほとんど投げやりな口調で言って、氷河が顎をしゃくってみせる。馬鹿なことを言う奴だと呆れられている――のは、絵梨衣にもわかった。 見上げたそこには、屋根はなかった。鮮やかな緑の木々の葉の隙間には、青空の断片がある。梅雨空の灰色ではなく、目の覚めるような青、空色ではなく原色の青に近い色の空が、濃い緑の隙間を埋め尽くしていた。 日本では、少なくとも絵梨衣は、生まれてこの方、こんな色の空を見たことはなかった。 もしかしたら、本当にここは横浜ではないかもしれない。それどころか日本ですらないのかもしれない――。絵梨衣は初めて恐怖を覚え、身震いした。 有名な聖和の二人と言葉を交わし、一緒にいられることに胸を弾ませていられるのは、二人が有名な世界にいればこその話である。得意がってみせる友達もいないところで、二人と共にいられることを有頂天に喜んでもいられない。 恐慌が、ひたひたと絵梨衣の足許に忍び寄ってきていた。 そこに、城戸氷河の軽蔑しきったような声。 「ったく、どうせなら、もう少し気のきいたこと言えないのかよ、おまえ」 ムッとして、絵梨衣が氷河を睨みつける。 「たとえば、どんな?」 尋ねたのは、瞬だった。少し考え込んでから、氷河が声色を使って答える。 「なんでアタシの夢に見知らぬ男が二人も出てくるのよーっ、とか」 「……」 瞬はたっぷり20秒、親友の顔を眺めてから、絵梨衣を振り返った。 「氷河なんてこの程度だから、気にしなくていいんですよ。絵梨衣さん、どこか怪我してませんか? 大丈夫?」 「あ…うん、はい…」 瞬ににっこり微笑まれ、絵梨衣はどぎまぎした。 初めてまともに瞬の顔を見て、息を飲む。 シャープというよりは可愛らしく人懐こい、頭の出来より有名な雪代瞬の顔が、なにしろ目の前50センチのところに迫っているのだ。 瞬の顔だちそのものは完全に大和民族の範疇にあり、大きな瞳以外は、どこが際立っているということもなかったのだが、全体として見るとそれは完璧な調和の中にあり、子供のように滑らかなその肌は、絵梨衣の見知っている同級生の男子とははっきり一線を画していた。顔の輪郭も鼻や唇も、全体的に柔らかな線で描かれている。それが柔弱に映らないのは、際立って大きい瞳が、ひどく思慮深い光をたたえているからのようだった。 「氷河もね。よっぽど気のきいたセリフを思いついたんでないのなら、偉そうなことは言わない方がいいんだよ」 「おまえ、女に甘いぞ」 ぶつぶつ口の中で文句を言っている城戸氷河の方は、瞬とは対照的に彫りが深い。母親がロシアの女性だという話だった。無造作に放っておかれたような髪は見事な金色で、だから、いつも一緒にいる瞬の髪の色素の薄さが目立たないのかもしれなかった。 瞬が、自然の生み出した柔らかな線で描かれた珠玉の作品なら、氷河の方は、計算しつくされた直線を複雑に組み合わせて刻み込まれた彫刻のようだった。体格も、氷河の方がはるかにがっしりしている。 絵梨衣は、ここに鏡がなくて本当に良かったと、しみじみ思った。こんな二人を見た後で、自分の顔を眺めた日には、一ヵ月は立ち直れないほどの落胆を背負い込むことにもなりかねない。クラブ活動のせいで日に焼けた肌や、母親譲りの低い鼻など、今更再認識したくはなかった。せめてもう少し髪を長くしておけばよかったと、絵梨衣は、ちょうど肩の上で切り揃えられた自分の髪を横目で見やった。 「でも、氷河。僕も気のきかないこと言っていい?」 「なんだよ!」 信じていた親友に裏切られたせいで氷河は、不機嫌の極致だった。氷河のふてくさった様子に頓着せず、瞬が"気のきかないこと"を言う。 「熱帯植物園でないなら、ここ、どこなの?」 「……」 沈黙が、二人の秀才の間に流れ、それは氷河の溜め息で途切れた。 「それが問題だよなー」 「星が出ればある程度見当はつきそうだけど、僕、夜には部屋に帰りたいな。冷蔵庫にカニがあるんだよ」 「カニ!? 毛ガニかっ!?」 「昨日、兄さんが持ってきてくれたんだ。氷河と一緒に食べろって。氷河、好きだよね、毛ガニ」 親友の裏切りを、氷河は毛ガニであっさり忘れてしまったらしい。 「絶対に帰るぞっっ!」 日本全国に名だたる聖和高校きっての秀才は、拳を握りしめ、力強く断言した。瞬がそれを見て、含み笑いを洩らす。そして絵梨衣は――絵梨衣はあっけにとられていた。 聖和高校の秀才も、これでは、すき焼きにあくなき執念を燃やす出来の悪い女子高生と大して変わらないではないか。胸中に抱いていたイメージが、がらがらと音をたてて崩れていくのを、絵梨衣は自覚した。それと同時に安堵と親近感も。 「うん。じゃ、ちょっと思考回路、"真面目"にスイッチして」 「した」 「ん。で、ここ、どこだと思う?」 瞬の問いに、氷河が辺りを見回す。心なしか顔つきが精悍に変わっていた。――おそらくは、毛ガニのために。 「日陰なのに気温が32、3度はあるからな。六月に30度越えてるってなると、熱帯、サバンナ、ステップ、砂漠、あとは地中海の辺りか? 呼吸は楽だから、高地じゃあないだろう。植物は熱帯雨林のものに近いが、空気は湿ってないから、乾期のある熱帯地域なのかもしれない。となると、南米大陸の北部、大西洋側、あるいはフィリピン、ミャンマー、スマトラ……ありえないな。瞬の言う通り、星を見ないことには正確なところはわからん。この森を出て、見晴らしのいいところを探しておいた方がいいかもな。山や川があれば多少の目星はつくだろうし、風の向きでもある程度のことはわかるだろう」 「移動するのは危険じゃないかな」 「動かないでいたら、何もわからないぞ。とりあえず水は確保しとかないと」 「長期戦になるかもしれないってこと?」 瞬が不安そうな目をするのを見て、氷河は笑った。 「大丈夫だって。なに、しょぼくれてんだよ」 「うん…」 長々とご託を並べたあげく、つまりは、ここがどこなのかわからないと氷河は言っているのだ。絵梨衣は二人の会話に割って入った。 |