「誠に申し訳ございません。兄は蛇以外の方に――つまり、誰にも跪いたことがないものですから」
 すまなそうな表情を作ってはいるが、ムスタバルの謝罪は、まるでこうなることを予想していたかのように澱みがない。
 こうなると初めからわかっていたのなら、ああいう男は無視して話を進めてくれれば時間の無駄を省けたのに、と氷河は思った。上司の許可を得ずに独断専行して、上司に睨まれるのを恐れるサラリーマンならともかくも、ムスタバルの上司たるあの男には、暴走する部下を睨む気概もなさそうだったではないか。
「まずは、お詫び申し上げます。まさか皆様方があのような辺境の島にお着きになるとは、兄は思っていなかったようなのです。てっきりこの宮殿の――自分の前に現れるものと思い込んで、兄は女たちと共に、昨日ずっとこの部屋で待っていたものですから、その、色々と…」
 ムスタバルの澱みない謝罪が初めて澱み、滞る。が、それも計算の上でのことだったろう。言葉にできない部分を察してくれと、彼は言外に要求しているのだ。つまり、彼の兄の手前勝手な思い込みとその言動から、兄の愚かさを認識してくれ、と。
 だが、氷河の知りたいことはそんなことではなかったのだ。そんなことよりも何よりも、氷河の知りたいことは、ここがどこなのか、なぜ自分たちがここにいるのか――だった。
「ちょっと待ってくれ。俺たちをここに連れてきたのは、あんたたちなのか?」
「兄がお招き申しあげました」
「あんたの兄貴ってのは何者だ」
「ここウルクの都の王、ウルカギナと申します。そして、近隣のウル、ラガシュ、エリドゥ、キシュ他、すべての都市の王たちの盟主」
「ウルクにウル、ラガシュ、エリドゥだと!?」
 氷河の大声に驚いて、絵梨衣は飛びあがった。
「何よ、急に! びっくりするじゃない。昨日から果物しか食べてないのに、なんでそんな大きな声が出るのよ!」
 絵梨衣は氷河に負けず劣らず大きな声で彼を責めたのだが、氷河にはその声すら聞こえてはいなかった。頭を巡らし、瞬を見る。
 瞬もまた、その瞳を見開いて氷河を見詰め返した。そして、かすれた声で呟く。
「シュメールの都市国家群…?」
 瞬の呟きを、ムスタバルは繰り返した。
「文化をもたらしたもの【シュメール】…? 蛇のことですか?」
 氷河たちとムスタバルの言葉を翻訳している"仕組み"が、瞬の呟きを固有名詞と一般名詞を混同した形でムスタバルに伝えたらしい。
 氷河はムスタバルを無視し、独り言のように、瞬にとも絵梨衣にともなく言った。
「俺たちはシュメール文明の時代にいるのか…?」
「何よ、そのシュメールって」
 翻訳を必要としていないはずの絵梨衣に、だが、氷河たちの驚愕はすぐには伝わらなかった。
「――おまえ、高三だろ。世界史くらいやったんだろ」
「失礼ね。やったわよ。1492年 コロンブス新大陸発見、1789年 フランス革命、1917年 ロシア革命」
「年号覚えるのが歴史だと思ってるのなら大間違いだ。今時、三流私立の入試にも年号埋めなんて問題は出ない」
 口の悪さは今まで通りだったが、それは大根役者のセリフの棒読みのようだった。抑揚が、まるでない。
「悪かったわねっ。なによ! 全国模試で常時10位内に入ってる人に、私の気持ちなんかわかんないわよ! ば…馬鹿にしてっ。私だって、真面目に勉強しようとは思ってるんだからっ」
『試験の前日だけは』とは、さすがに絵梨衣も言葉にはしなかった。
 瞬が、例によって例のごとく仲裁に入ってくる。
「絵梨衣さん。氷河は絵梨衣さんを馬鹿にして言ってるんじゃないんです。試験の成績なんて記憶力と応用力だけのことだもの。絵梨衣さんは機転がきくし、問題解決能力に秀でてる人です。そっちの方が実生活では役に立つし、ほんとの意味で頭がいいってことで、氷河もそれはわかってるの。氷河が言ってるのは、知識を得ようとする姿勢のことなんです」
「……」
 瞬の仲裁は、絵梨衣には少々面映ゆいものだった。2、3度軽い咳払いをしてから、瞬に尋ねる。
「…で? 歴史の教科書に出てくるようなものなの? その、シュメールって。いったい、いつごろなのよ」
「紀元前4000年」
 あまりにわかり易すぎる瞬の返答に、絵梨衣は遅ればせながら、やっと氷河たちの驚愕の意味を理解した。
「えええ〜〜〜っっ !? 」
 叫んでから、叫んだ口をそのままぽかんとあけて、絵梨衣はしばらく閉じることができなかった。頭の中に歴史年表を思い浮かべてみたのだが、絵梨衣の年表は"1453年 ビザンチン帝国滅亡"以前はすべて空白だった。
「只今は創世紀元2242年です。皆様方には、創世紀元8267年からこちらにお越しいただきました」
 引き算は、絵梨衣にもできた。この時代と絵梨衣たちの時代の1年の長さが同じと仮定して、6025年前、である。
 ありえない、と絵梨衣は思った。そして、氷河もまた絵梨衣と同じ判断をした。出会って初めてのことだったかもしれない。
「シュメールに翻訳機? ありえないぞ、そんなことは」
 実際に言葉は翻訳されているのだから、氷河が否定したのは、ここが――否、今が――シュメール文明の時代だということの方だったが。
 氷河が続く言葉を見つけられずにいる間をぬって、ムスタバルは椅子のある部屋への移動を提案してくれた。
 案内された部屋は、玉座のあった部屋よりずっと小さな部屋だったが、2DKのマンション住まいに慣れた氷河には、むしろ居心地がいいくらいだった。窓がないのは空調のためなのだろうか。ここも、パネルが外の様子を映しだしていて、画面には中庭の景色が映っていた。
 椅子はさすがに木材でできたものではなく、鈍く青色に光る金属の骨組みに麻のような布を渡らせた、ビーチチェアーの長椅子版といったところだった。座り心地は、木の椅子に比べて格段にいい。
 氷河は瞬の隣りに座り、絵梨衣の隣りには、いつのまにかくっついてきていた例の子供がちょこんと腰を降ろしていた。
「説明は、おみ足の手当てをしてからにいたしましょうか?」
 ムスタバルに尋ねられ、瞬と絵梨衣は同時に左右に首を振った。
「ここはどこで今がいつなのかということはわかりました――いえ、伺いました。なぜ僕たちがここに呼ばれたのか、どうやって運ばれたのか、どうすれば帰れるのかを教えて下さい。それ以外のことは後回しで結構です」
 ムスタバルが瞬に頷く。頷きながら、彼が微かに眉をひそめたのを、氷河は見逃さなかった。おそらく瞬も気付いただろう。
「我々は蛇を求めているのです。先程も申しあげました通り、蛇は、我がウルクの王に世界を統べる力と権利を与えたもうたお方。蛇になら、今破滅に向かおうとしている世界を救うこともできるはず」
「破滅? どこがだ。この都市がか?」
「そうです」
「そんなふうには見えなかったぞ。町は整然としていた。シュメールの時代には麦の生産量も高かったし、パキスタンから地中海沿岸まで交易も盛んだったはずだ。俺たちの知っている歴史では、シュメールは中央集権的な官僚体制の崩壊と異民族の侵入によって消え去ったことになっている。だが、それは、確か――シュメールの中心がウルに移ってかなり経ってからだったと記憶してるぞ、俺は」
 ウルクは、シュメール文明のごく初期に栄えた都市である。その後シュメールの覇権は、キシュ、ラガシュ、ウル等の都市の間で争われ、最後のウル第三王朝の滅亡がシュメール人のメソポタミア支配の終焉と言われている。
 それをシュメール文明の滅亡というのなら、その時がくるのは、おそらく、今現在より3000年以上後のことのはずだった。
「そうなのですか。我々は近い将来のことはわかりませんので…。兄は、蛇の力によって未来のこともすべて見通しているようなのですが、民の知らぬことを知っているから王でいられるとなれば、なかなか兄もそういったことを我々には知らせてくれません。兄が私に語ってくれるのは、知っても我々には関係のないはるか遠い未来のことだけです」
 自分たちの文明がやがて滅びると知らされても、ムスタバルは顔色ひとつ変えなかった。
「先のことはどうでもいいのです。大切なのは、今生きて、我が王家に忠誠を誓ってくれている民の命なのです」
「……」
 今生きている人間だけが重要で、数百年後、数千年後はどうなってもいい――人は、そう考えるものなのだろうか。
 考えるものなのかもしれない、と氷河は思った。氷河自身、そんな未来のことを思い煩ったことは、これまで一度もなかった。
「――蛇が王に与えたもうた力が弱まってきているのです。これまでの王は、蛇に与えられた"仕組み"を駆使して、河の氾濫を抑え、気圧の制御を行い、この土地を守ってきました。必要な時に必要なだけの水や、穀物を実らせるのに適当な温度と光――を、民に与えられるから王だったのです。だのに、兄は王の務めを果たせなくなってきています。土地は乾燥し、麦は実らず、海岸には泥土が堆積して海が遠くなり、ウルクは交易の中継地としての役目も果たせなくなってきている。民は皆、不安に怯えています。王は真の王なのかと、不信が募ってきている。私はこの状況を打破したいのです。蛇になら、それができるはずなのです!」
 ムスタバルの熱弁に、氷河は――正直言って――しらけてしまっていた。
 自分たちの時代の危機――を憂える気持ちはわからないでもない。だが、その危機を乗り越えるのに、自分たちの力をもってしようとしないで、他人に頼ろうというのはどういう了見なのだろう。彼の案じているものすら、自分たちで築きあげたものではないというのに。
「つまり、あんたは、力が弱まってきた蛇の"仕組み"とやらを元に戻してもらいたくて、おそらくは、その蛇の"仕組み"を使って俺たちをここに呼んだ…ってことなのか?」
「その通りです。兄は渋っていましたが、私が必死に民の不安を訴えて説き伏せました。蛇の"仕組み"は王にしか作動させることができませんから。私にできるのはせいぜい、兄の許可を得て船を動かすことくらいなのです。私が兄なら、もう10年も前に蛇を招喚していたものを…」
 音がしそうなほど強く奥歯を噛みしめて、悔しそうにムスタバルは言う。だが、その言葉の裏に、『私が蛇を呼んだのだ』と自らの手柄を誇っている調子が見え隠れしていて、それが氷河を不快にさせた。
「そりゃ残念だったな。だが、どっちにしても俺たちは平凡な高校生で、蛇でもミミズでもないぞ。そんな仕組みの修理や補強もできなけりゃ、そのための知識もない」
 ひとしきり毒づいてから、氷河は、この宮殿の万能翻訳機は"高校生"という単語をシュメールの言葉に適切に翻訳できるのだろうかと、どうでもいいことを考えた。シュメールの遺跡から発掘された楔形文字を刻んだ粘土板に学校の記録があったことを思いだし、概念は理解できるのだろうと、自問自答に蹴りをつける。案ずるまでもなく、ムスタバルは"高校生"という単語に引っ掛かった様子は見せなかった。
「自覚されていないということもありましょう。蛇の"仕組み"があなた方を呼んだのです。あなた方の中に蛇はいるはずです」
 確信に満ちて断言するムスタバルを、氷河は斜眼に睨みつけた。
 ここがシュメールだと聞かされた時から、"蛇"がどういう形態の人間を指す言葉なのか、氷河の中には一つの仮定が築かれていた。その仮定を打ち消すために、氷河は言った。
「俺たちがどんなだったら蛇だっていうんだ? 足がないのか? 舌が長いのか? 脱皮でもするってのかよ!」
「ねっ、ねっ。生まれ変わりってのはどう!?」
 氷河とムスタバルの間に漂っている険悪な空気を察知することができなかった絵梨衣が、突然二人の間に割り込んでくる。
「だったらいいがな」
 真面目に相手をする気も起こらず、氷河は絵梨衣の意見を言下に切り捨てた。
「ともかく俺たちは蛇でもアルマジロでもない。あんたらの力にはなれない。だから、さっさと元の世界に戻せ!」
 蛇の正体も、なぜこの時代にこんな文明が存在するのかも、どうやって自分たちがここに運ばれたのかも、蛇の"仕組み"の謎もどうでもいい。氷河はただ、瞬をこの世界に置きたくなかった。
 ムスタバルが、猛り狂っている氷河を不思議そうな目で見る。淡々とした声で、彼は言った。
「もちろん、蛇の"仕組み"をもってすればそれは可能なのでしょうが……なぜ戻りたいのです? あと10数年もすれば滅び去る世界に」
「なんだとっ !? 」
「創世紀元8283年でしょう。世界と人類の消滅の時は。兄からそう聞いています」
「――」
 氷河は言葉を失った。
 氷河だけでなく、絵梨衣も瞬も、揃って息を飲む。
 実際は、彼らは、何をムスタバルが言ったのか、即座に理解できたわけではなかった。理解できた後も、現実感や真実味を感じることはできなかった。それは、絵梨衣たちには到底信じられないことだったのだ。だが、6000年の時の隔たりをものともせずに絵梨衣たちをここに運んだ科学力――なのだろうか?――を思うと、ムスタバルの言葉を頭から否定することも難しい。
 喉の渇きを、氷河は痛いほど自覚した――時。
 重苦しい沈黙を破って、突然、氷河の腹の虫がその存在を主張し始めたのである。
「氷河!」
 瞬に責められても仕方がないと、この時ばかりは氷河も思った。10数年先の人類の危機よりも今現在の空腹に、人は支配されるものなのだと、しみじみ実感する。
 と、それまで絵梨衣の横で一言も口をきかずに氷河とムスタバルのやりとりを聞いていた少年が、大声で笑いだした。
「なんなんだよ、このガキはっ!」
 半分は気まずさを振り払うために、氷河が怒りの矛先を少年に向ける。青い服の少年は、悪びれる様子もなく、今更ながらの自己紹介をした。
「ジウスドラ・エン。現ウルク王ウルカギナは、僕の父です。僕、まだ、皆さんのお名前を伺っていません」
「それがどーしたっていうんだ。何がおかしい!」
「いえ。人間がどういう生き物なのかがわかったような気がして、興味深かったのです」
「ぐ…」
 どう見ても5、6歳は年下の子供に痛いところを突かれ、氷河が渋面を作る。
「申し訳ございません。ジウスドラは母親を早くに亡くしたものですから、躾が行き届きませんで……早速、食事の用意をさせましょう」
「その間に身支度を整えてもらったら? 蛇は美しく清らかな人と聞いていたのに、みんなこんなに埃だらけでは、僕、夢が壊れてしまう」
 生意気な子供の提案に、最初に強く賛意を表したのは絵梨衣だった。







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