ウルクの夜は――蛇の宮殿の夜は静かだった。おそらく翻訳の施設だけでなく、防音設備も完璧なのだろう。外の音は全く遮断されている。 静かすぎて違和感を覚えるほどだったが、それでも不安に満ちた昨夜に比べれば、氷河の気分はかなり落ち着いていた。自分たちがどこにいて、今がいつなのかがはっきりし、飢えと渇きの不安は解消されている。元の世界に戻る方法もないわけではないらしい――ことがわかったのだから。 元の世界の破滅という不吉な予言が、氷河の心に影を落としてはいたが、絵梨衣の言う通り、『それでも、とにかく元の世界に帰りたい』という気持ちは変えようがないのだから、その点に関しては迷いもなかった。 問題は、どうやって自分たちの中には蛇などいないのだということを、この宮殿の住人たちに示せばいいのかという、ただ一点に絞られている。それが証明されない限り、あの妙に裏のありそうなムスタバルや倦怠感に満ち満ちたウルク王は、自分たちを解放してはくれないだろう。だが、どうすれば自分たちが蛇でないということを証明できるのか――それが氷河には思いつかなかった。 「なあ、瞬。どうすれば、あいつら、俺たちを帰してくれると思う?」 氷河は、彼が案内された部屋を出て、瞬の部屋に来ていた。 元来氷河は一人でいることが全く苦にならないタイプで、むしろ大勢でつるんでいると段々苛ついてくるほどだったのだが、瞬だけは別格だった。自分の考えを整理しようとしている時も、それは変わらない。 部屋には寝台や椅子の他に、ビールや葡萄酒などの飲み物まで用意されていたが、テーブルだけはなかった。ベッドヘッドや椅子の脇に、グラスを置くための小さな棚がついていたから、それで充分テーブルの代わりはできるということなのだろう。 「いちばんいいのは、本物の蛇を連れてくることだろうけど……難しいね。多分無理だよ、それは」 寝台に腰を降ろしていた瞬が立ちあがり、椅子に座っていた氷河の手からビールの入ったグラスを奪い取る。シュメールだろうがバビロニアだろうが、未成年は未成年ということらしい。 「蛇の正体がいったい何なのか、考えられるパターンは三つだよね。有史以前に高度な文明が展開されてて、その末裔がシュメールの人達に自分の知識を伝えたってパターンと、僕たちの元の時代より未来の人が時間移動を可能にして、シュメールに未来の文明を伝えたってパターン。それから三番目が、氷河の好きな――」 「宇宙人説か。言っとくが、別に俺は好きなわけじゃないぞ、宇宙人なんて。興味があるだけだ」 「どっちにしても、本物の蛇にご登場願うのは無理、だよね」 「あの寝惚けた王様を脅迫するっていうのはどうだ? どっかからナイフでも手に入れて、喉元に押し当てて――」 話が物騒な方向に向かい始めるのに、瞬が顔をしかめた時、ふいに入口からムスタバルの声が聞こえてきた。 「瞬様、おやすみですか? お話があります。少々お時間を裂いていただきたいのですが」 この宮殿の部屋部屋にはドアがない。かなりの重さのドアに耐え得ると思われる金属製のレールが床にはあるのだが、おそらくは、その自動ドアが動かなくなって、代わりに厚手の布のカーテンをしつらえたのだろうと、氷河は推察していた。 有翼円盤の船室の椅子を見た時にも思ったのだが、この宮殿の人々は、蛇に与えられた様々な施設や機械の仕組みを解明できず、それらが壊れた時には、自分たちにできる原始的な対処方法で代替していく――というやり方を繰り返してきたようだった。 それはともかく、ムスタバルの声を聞いて、氷河はあからさまに嫌そうな顔をした。追い払ってしまえばいいのにと氷河は思ったのだが、瞬がそんなことをするはずもなく、彼は訪問者を室内に招き入れた。 入ってきたムスタバルが、氷河がそこにいるのを見て、微かに眉をひそめる。 「氷河さんもこちらにおいででしたか」 「こちらにおいでじゃ悪いのか」 最初から喧嘩腰の氷河をたしなめようとした瞬も、 「氷河さん。申し訳ありませんが、しばらく席を外して下さいませんか」 というムスタバルの要求は、快く受け入れる気にはなれなかった。もっとも、瞬が快諾しても、氷河がそれを許さなかったろうが。 「断る。俺のいるところで話せないようなことは、瞬にも聞かせられない。ろくな話じゃないに決まっているからな」 たとえ槍が降ろうが宇宙人が襲来しようが、この場から動いてたまるかといわんばかりの氷河を、ムスタバルは扱いかねた様子だった。氷河に席を外させるのを諦めて、彼は瞬に向き直った。 「ご報告しなければならないことがございまして。瞬様には大変失礼なことなのですが、どうも兄が絵梨衣さんを蛇だと思い込んでしまったようなのです」 「え?」 「宝石や上等の衣のせいで見誤ってしまったのでしょう。蛇の恩恵で王の地位にある者が、誰が蛇なのかすら正しく見抜けないことがあろうとは、私には考え及びもしないことでした」 「ちょ…ちょっと待って下さい。絵梨衣さんが蛇? それ、どういうことですか」 戸惑いながら尋ねる瞬の当惑の様を、ムスタバルはさもありなんとばかりに頷いた。 「お腹立ちはごもっともです。兄はそういう浅はかな人間なのです。ですが、私は見誤りません。蛇は、瞬様、あなたです。王に力を授けるために天上神に創られた美神。一目見て、私にはわかりました。兄にわからなくても、私にはわかります」 ムスタバルは、今にも瞬の足元に額ずかんばかりだった。 救いを求めるように、瞬が氷河を見やる。 その視線を受けて、氷河は冷めた口調で言った。 「一目見て? ふん。『風呂場を覗いて』の間違いじゃないのか。てめー、"瞬"を見たな」 ぎくりと、ムスタバルの肩が強張る。それから、彼はゆっくりと顔をあげた。 「冗談じゃ済ませないぞ。俺ですら見たことがないってゆーのに、この変態覗き野郎が!」 ただ軽蔑だけでできている言葉を、氷河がムスタバルに投げつける。 ムスタバルは氷河に対峙し、忌ま忌ましげに彼を睨めつけた。温厚篤実を装っていたムスタバルが初めて見せる、どこか引きつった醜い表情だった。 「しかし、兄が見誤っていることに変わりはない。あんな愚かな男を王として戴く民の苦衷も察してほしいな」 「なら、反乱でも革命でも起こせばいいじゃないか。瞬を巻き込まず、貴様等だけで」 「そうはいかないのだ」 計画通りに事が運ばないのに苛立ったのか、ムスタバルは吐き出すように言った。 「破綻しかけているとはいえ、世界は王が支配している。王が自ら望まない限り、他の誰も王にはなれない。あの愚鈍な王に、どれほどの力があるか知っているか? 水を支配し雨を降らせ、太陽を支配し気温を上下させ、この宮殿も王の支配下にある。王がその気になれば、この宮殿は今すぐにでも真の闇に包まれ、私はあなた方と話をすることもできなくなる。そして、たとえそうなってしまっても、私には、王が気を変えてくれるのを待つことしかできないんだ。王は、蛇の"仕組み"の力が弱まっていると言っている。だが、本当にそうなのかどうかは、王にしかわからない。もしかしたら、王が気まぐれで民を苦しめているだけなのかもしれないんだぞ!」 気負い込んで訴えるムスタバルに、しかし、氷河はほとんど同感できなかった。 "目的のためには手段を選ばず"は、時によっては非常に有効な手法で、それを否定するつもりは氷河にはさらさらなかった。だが、ムスタバルの真の目的が、氷河にはどうしても"民を窮状から救うこと"よりも"自分が王になること"であるように感じられて仕方がなかったのだ。これは、目的のために手段を選ばない者が背負わなければならない宿命である。手段を選ばない者が、果して正しい目的など持つものだろうか――人は、そう疑うものなのだ。 「そもそも、王の長子が次の王位に就くという慣習が間違っているんだ。初代の王は、自分の後継者には民の中から有能な人物を選んで据えたそうだ。それがいつのまにか世襲制になり、このままいけば、次代の王は、船を作って遊んでばかりいる、あのジウスドラだ」 「だから蛇にご登場願って、その流れを変えてほしい…というわけか?」 「あんな女を集めるしか能のない男が王でいていいはずがない」 「そりゃ同感だが、だからって瞬を巻き込んでいいってことにはならないんだよ。瞬、こんな奴の口車に乗るんじゃないぞ」 ムスタバルを睨みつけたままそう言った氷河は、瞬の返事が返ってこないのを訝って、視線を瞬の方に巡らせた。 瞬は凍りついたように、部屋の出入口を見つめている。 そこには、島で会ったあの男たちの姿があった。ムスタバルの指示を待っているに違いない。 ムスタバルは、冷たい笑いを口許に浮かべた。 「瞬様。あなたの友人は口が達者すぎるようだ。申し訳ございませんが、宮殿外の石牢にでもご退去願います」 「ムスタバルさん!」 瞬は抗議の声をあげたが、ムスタバルは表情ひとつ変えず、男たちに室内に入ってくるよう手で示した。 命じられた男たちが、無言で瞬の前を通りすぎ、氷河の腕を両側から掴みあげる。 瞬は、反射的に叫んでいた。 「氷河と僕を一瞬でも引き離したら、僕、舌を噛んで死にます! それでもいいんですか! そんなことになったら困るんでしょう !? 口から出任せ言ってるんじゃありません。本気です!」 「……」 ムスタバルが、瞬の悲痛な訴えに眉根を寄せる。 瞬の脅迫は確かなところを突いていたらしい。彼はしばらく考え込む素振りを見せてから、男たちに退がるように合図した。 瞬がほっと息を洩らす。 「では、しばらく――あと3日ほど、お二人をこの部屋に軟禁させていただきます。早まったことはなさらない方が利口ですよ。こちらにはもう一人人質がいるんですから」 「絵梨衣さんにだって何かしたら許しません! そんなこと許されません!」 きっぱりと言いきる瞬に、ムスタバルが醜く歪んだ微笑を投げる。彼はそれ以上は何も言わず、部屋の入口に四人の見張りを残して、部屋から退出していった。 |