「知識と水の神エンキは我等に蛇をお遣わし下さった方です。今日の祭儀は、ウルクに従属している諸都市の王たちがすべて集まって、ウルク王への忠誠を新たにし、蛇を讃えるために行います。今年は蛇の降臨があったというので、例年とは比べ物にならないほど民たちは興奮しているようです。昨夕のうちに諸都市の王も全員、この宮殿に入りました」
 3日間一度も氷河たちの前に姿を現さずにいたムスタバルが、尋ねたことには返答せず、尋ねもしない祭儀のことをべらべらとまくし立てるのを真面目に聞く気にもならず、氷河はそっぽを向いた。

 3日間の軟禁のせいで瞬は衰弱しきっている。氷河の苛立ちは限界まできていた。
 軟禁といっても衣食住に問題はなく、それは虜囚の身には過分なほど行き届いていた。食事は相変わらず豪勢だし、身の回りの世話をする女たちも複数つけられていて、望むことは大抵聞き届けられる。ただ、自由と情報が与えられないだけ――だった。
 だが、瞬が日に日に弱っていくのは自由と情報の不足のせいではない。それは氷河にもわかっていた。
 自分のせいで氷河や絵梨衣をこんなことに巻き込んでしまったと、瞬は思い悩んでいるのだ。
 誰かのせいだというのならそれはムスタバルのせいだと、氷河は口を酸っぱくして諭したのだが、瞬は力無く頷くだけで、一向に諭されてくれない。瞬は、眠れない夜を過ごしているようだった。
 氷河は夜は瞬と同じ部屋の長椅子で横になっていた。いつまでも寝返りを繰り返すばかりで眠りに就けないでいる瞬をどうしてやることもできない自分が、氷河はじれったくてならなかった。
「――何を企んでいやがる。その祭儀が何だっていうんだ」
 憎々しげに言う氷河には目もくれず、ムスタバルは、寝台に座り込んでいる瞬の前に行き、慇懃に一礼した。
「諸都市の王たちに、瞬様からご挨拶していただきたいのですが」
「あ…いさつ…?」
 呟くように同じ言葉を繰り返す瞬とムスタバルの間に、氷河が割って入る。
「あいにくだが、瞬には、そんなことをする義理も義務もない!」
「そうしていただかないと、私が困る」
 背後に瞬を庇うようにしてムスタバルの前に立った氷河に、ムスタバルは、いくら叱っても悪戯を繰り返す小学生でも見るような目を向けた。
「貴様が困ろうが悩もうが瞬には関係ない! 瞬が弱ってきてるのがわからないのか、貴様っ!」
「やつれたお顔もお美しい」
「なんだとっ!?」
 それでなくても切れかかっていた氷河は、その一言でぷっつり堪忍袋の緒が切れてしまった。
 瞬を自分の野心に利用しようとしているのなら、せめて瞬を大事にしてほしかったし、そうして当然だとも、氷河は思っていた。言葉づかいや態度だけは慇懃でも、瞬を気遣う気持ちを全く見せないムスタバルに、氷河の我慢は尽きてしまったのだった。
 握りしめた拳を、一瞬の躊躇もなく振り降ろす。
 氷河より一まわり小柄なムスタバルは、風に遊ばれる枯れ葉よりあっけなく床に倒れ込んだ。ムスタバルの背後に控えていた男たちの幾人かが彼を助け起こし、残り幾人かが氷河を抑えつける方にまわる。
「氷河っ!」
 氷河が後ろ手に左右の腕の自由を封じられ、顔を歪めるのを見て、瞬が叫ぶ。
「ひ…氷河を放して下さい! あなた方が氷河に何かしたら、僕――」
「『死にます』…ですか?」
 助け起こされたムスタバルが、男たちに取り抑えられている氷河を横目でちらりと見てから、瞬のすぐ前に立つ。酷薄な笑みを浮かべる彼の表情は、どこか爬虫類めいていた。
「死ねるものなら死んでごらんなさい。そんなことをしたら、彼もあなたの後を追うことになりますよ」
「……!」
「どんな処刑がいいでしょうねえ。目を抉り取り、爪を剥がし、このこうるさい口を封じるために舌を引き抜くのもいいし、二度と拳を振るえないように手首を切り落とすのもいい。なにしろ蛇を死に至らしめた極悪人となれば、並の処刑では民が承知しないでしょう」
「極悪人は貴様だろーが!」
 氷河が怒声をあげると、ムスタバルは、部下の一人に、氷河を黙らせるように合図を送った。動きを封じられていた氷河が、男の拳をまともに顔面に受ける。唇が切れて、氷河の口許から一筋血が流れ落ちた。
「や…やめて下さいっ!」
 頬を蒼白にして、瞬が悲痛な声を室内に響かせる。
 ムスタバルは心地良さそうに瞬の叫びを受け止めた。
「これ以上彼を傷つけたくないのなら、私にご協力下さい、瞬様」
「そんな奴の言うことなんかきくんじゃないっ!」
 男たちの手から逃れようと肩を揺らす氷河がいい加減うっとおしくなったのか、ムスタバルは、氷河を殴った男に再び顎をしゃくって彼を黙らせるように命じた。無言で氷河の前に立った男が、勢いをつけて氷河の鳩尾に拳をのめり込ませる。
 低く短い氷河の呻き声が瞬の耳に届き、まるで項垂れるようにがくりと氷河の首から力が脱けていった。
「氷河っ!」
 そのまま床にどさりと放りだされた氷河の側に瞬が駆け寄る。それまで氷河を抑えつけていた男たちは、そのまま二、三歩後ろに下がっていった。彼らも、瞬に暴力をふるうことだけは避けたい様子だった。
 氷河は完全に気を失っていた。
 氷河の上体を抱き起こし、瞬が苦しそうに眉根を寄せて、その顔を覗き込む。
 氷河のこんな姿を見ることは、瞬には耐え難いことだった。
 氷河を守ってやらなければならない。そうすることができるのは自分しかいないのだと、瞬は唇を噛みしめ、思った。
「お兄さんと話し合って下さい。あなたのお兄さんは、一見したところ国政に興味がなさそうでした。今の生活の継続を保証してあげれば、案外簡単に、全ての権限をあなたに委譲してくれるかもしれません」
 氷河の肩を抱き、瞬はムスタバルに訴えたのだが、彼はその提案を軽く一蹴した。
「もう、その時期は過ぎたのですよ。私は今まで何度も兄に諫言してきました。兄はそのたび、王の苦しみを他の者に味合わせたくないなどと訳のわからないことを言って私を退けた。そのくせ、自分は王としての務めを果たそうともしない。結局、兄は王の権力に未練があるんだ。民のことより、国のことより、己れの力の保持しか考えない男なんですよ、兄は」
「それでも…!」
 必死の目をして食い下がる瞬から、ムスタバルが視線を逸らす。
「蛇を脅迫しているのです。自分が神に背いていることは重々承知している。だが、そうしなければ、この国は滅んでしまうんだ。私が王になって国を建て直せば、賢王の登極に一役買ったということで、兄も愚王の汚名を晴らすことができるでしょう」
「……」
 ムスタバルの主張には一片の理もないと思うわけではない。だが、瞬にはムスタバルの自信が高慢に感じられ、どうしても彼に運命を委ねることになるウルクの民の幸福を信じきることができなかった。
「大事な人なのでしょう? 彼には生きていてほしい…ですよね?」
 瞬に肩を抱かれている氷河を顎で示し、彼は瞬に脅迫への屈伏を命じる。
「――あなたの…言うことをききます」
 それは、瞬に抗しきることのできる脅迫ではなかった。







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