「じゃあ、絵梨衣さんを蛇だって王に進言したのは、ムスタバルだったんですね」
「それで後から雪代くんを連れてきて、こっちが本物で、王様は偽物の蛇で国の人たちを騙してるなんて言って、自分が告発するなんてあんまりでしょっ!」
 絵梨衣はムスタバルの奸計を瞬に説明しているうちに、頭に血がのぼってきてしまっていた。重い装飾品を外して床に放り投げ、ひとしきりムスタバルの卑劣さをなじってから、絵梨衣は血にまみれたウルカギナの姿を思いだし、嘔吐感を覚えた。たとえ無能な王でも、どんな理由があろうとも、実の兄を殺害するなど、人間のすることではない――というのが、絵梨衣の常識と価値観に因った結論だった。
 更に絵梨衣の心を乱したのは、彼女の世話をしていた女たちが、ムスタバルの虚言を虚言と知っていたという事実だった。王が偽の蛇を偽物と見抜けるかどうかを試すのだと、彼女らは最初からムスタバルに言われていたらしいのだ。してみると、この宮殿の人間のほとんどは、ムスタバルに言いくるめられ、王を裏切っていたことになる。王の宮殿に暮らす者が皆王の敵だなどということは、絵梨衣には思いもよらないことだった。

「――私たち、これからどうなるのかな…」
 絵梨衣が心細そうに室内を見まわす。
 彼らは玉座の間の隣りにある小さな部屋に閉じ込められていた。
 入口にはムスタバルの部下が一人見張りに立っている。一人きりの見張りなどどうにかできないこともなかったろうが、瞬は、この部屋から逃げだすのをためらっていた。
 この宮殿内にいるほとんどの者がムスタバルの側についていること、氷河の身があの王位簒奪者の手の内にあることを考えると、迂闊な真似はできなかったのだ。
「ものは考えようかもしれません。卑怯な手を使ったとはいえ、ムスタバルは王になったんです。王は蛇の仕組みを動かせる。そして、僕たちはムスタバルにとって邪魔者で……。もしかしたら、彼は、僕たちを元の世界に送り返して厄介払いをしようとするかもしれません」
「そ…そうかな…?」
 少し、絵梨衣の頬に赤みが戻る。それを見て、瞬は、『あるいは、命を奪って厄介払いするか、二つに一つですね』という言葉を喉の奥に飲み込んだ。
 と、そこに、突然、ムスタバルが真っ青な顔をして飛び込んできたのである。珍しく、護衛もつけていない。彼は室内に踏み込むなり、瞬の手首を掴みあげた。
「来い!」
 彼にしては語気荒く言い、ムスタバルは瞬を廊下に引っ張り出そうとした。
 瞬が身体を堅くして抗う。
「放してください! もう僕たちに用はないでしょう! 僕たちを元の世界に帰してください。僕たちは、今のあなたには邪魔者なんじゃないんですか? あなたは王になったのですから、僕たちを元の世界に帰すこともできるんでしょう !? 」
 畳みかけるように、瞬はムスタバルに言ったのだが、彼はそれどころではなかったらしい。
「――そうはいかなくなったんだ」
 瞬への返答というよりは、まるで自分自身に言い聞かせるように、ムスタバルが呟く。
「……?」
 瞬はその様子を訝しんでムスタバルを見詰め、それから絵梨衣と視線を交わした。
 絵梨衣もまた、怪訝そうな面持ちである。
 望んでいた王の座に就いて有頂天でいるはずのムスタバルの、この周章狼狽ぶりはいったいどうしたわけなのだろう。瞬の胸は、どちらかといえば不安のためにざわついた。
 何か計算違いが起こったのかもしれない。民衆や諸都市の王の承認だけでは"王"になったとは言えない何かが。
 そして、それは当然、蛇の仕組みに関わることに違いないと、瞬は直観的に思った。
「蛇の仕組みが…どうかしたんですか?」
 瞬の問いは核心を突いていたらしい。ムスタバルの、それでなくても青ざめていた頬から、更に血の気が引いていく。
「ちょ…ちょっと! 雪代くんをどっかに連れてくなら、私も一緒に連れてってよ!」
 食い下がる絵梨衣を突き飛ばし、ムスタバルは瞬の手を引っ張って、そのまま彼を"どっか"に連れていってしまった。
 絵梨衣が一人残された部屋の見張りが氷河たちによって昏倒させられたのは、それからすぐ。瞬がムスタバルに連れ去られてから5、6分後のことだった。







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