瞬がムスタバルに連れていかれたのは、つい数時間前にウルカギナ王が祭儀を執り行なったジッグラトの祭壇の前だった。
 立錐の余地なく詰めかけていた民衆の姿は、既にただの一つも広場にはない。太陽は西に傾き、オレンジ色の夕日がジッグラトの頂上を照らしていた。
 そのすぐ下、祭壇の前に、長さが30センチほど、幅が10センチあるかないかの、横に長い長方形の供物台らしきものがある。供物台には丸く穿たれた小さな穴が12個並んでおり、それぞれの穴の脇には楔形文字が刻まれていた。刻まれている文字はどうやら数を示す文字――数字――らしい。
 ムスタバルは懐から白い布に包まれた球体を7つ取り出して、瞬の前に差し出した。
「私は、兄がこの球をこの穴にはめ込んで、祭壇の地下にある蛇の仕組みの部屋に入るのを盗み見たことがある。だから、兄を殺してこの球を手に入れることができれば、私でも蛇の仕組みを使えると思っていた。だが、私がこの球をはめ込んでも、地下への扉は開かれなかった。あの時、兄がしたのと同じ順番で同じ場所にはめ込んだのに、だ。おまえなら――いえ、あなたならおわかりでしょう。どうすれば蛇の部屋は開くのです? 球だけでは足りないのか? 呪文が必要なのか? 兄と私とでは何が違うんだ!」
「……」
 ムスタバルが気負い込んで尋ねてくる。
 瞬には、彼の狼狽の訳がやっとわかった。
 ムスタバルは、兄を殺すことまでして王位を手に入れたというのに、蛇の仕組みの力を使うことができないでいるのだ。ムスタバルが蛇の力を使えないと知れば、諸都市の王たちの刃は、今度はムスタバル自身に向けられないとも限らない。民の怒りもまた彼に向けられ、彼はシュメールの人々のすべてを敵にまわすことになるだろう。ムスタバルの狼狽も、当然といえば当然のことである。
 だが、それは、瞬にとっても重大事だった。元の世界に戻るためには、どうしてもムスタバルに蛇の仕組みを動かしてもらわなければならない。ウルカギナが死んだ今、瞬たちを元の世界に戻せるのは、もうムスタバルしかいないのである。
 瞬は、目の前に差し出された透き通ったバラ色の球体をじっと見詰めた。それから、供物台に穿たれた12の穴を。
 7つの球体はみな、同じ大きさ、同じ色、同じ形をしている。球を生成している物質も重さも一様のように思われた。
 だとしたら、これは当然、球を穿孔にセットする順序とその場所が問題なのだろう。しかもそれは、ある程度のサイクルで変化するようになっているに違いない。数億通りあるセットパターンをすべて試してみたら、そのどれかはあるべき順序であるべき場所に納まるのだろうが――と、瞬が考えた時、
「瞬っ!」
 瞬を呼ぶ氷河の声が、瞬の耳に聞こえてきたのである。
 瞬は反射的に振り返った。そして、階段塔の下に氷河の姿を見いだし、瞬は息を飲んだ。
「氷河っ !! 」
 今頃はムスタバルの部下たちに見張られて身動きもできない状態なのだろうと思っていた氷河の無事な姿は、瞬の胸の中の不安を一気に吹き払ってくれた。
 階段を駆け降り、氷河の側に行こうとして、だが、瞬はすぐその足を止めた。氷河の横に、絵梨衣と、そして、ジウスドラの姿があるのに気付いて。

 瞬はたった今まで、ジウスドラのことを失念していたのである。瞬はそれまで、氷河や絵梨衣の安否を気遣い、卑劣な王を戴くことになったシュメールの民の先行きを案じることしかしていなかった。ウルカギナ王の死で最も直接的な悲しみと苦しみを味わう人間が――ジウスドラがいることを、瞬は、今の今まですっかり忘れていたのだ。
 そして、だが、瞬は思いだしてしまった。
 この、母のない小さな少年は、父の死をどれほど悲しんでいることだろう。
 その死の責任の一端を自分が担ってしまったことを思うと、瞬は、氷河の無事を喜んで彼の側に駆け寄っていくこともできなかった。
 重く沈んでいく心をどうすることもできず、心と同様に重い足取りで、瞬はゆっくりと階段を降りた。ジウスドラの前にしゃがみこみ、彼の手を取って、その瞳を見詰める。
「……ごめんね…僕のせいで……」
 慰めの言葉を見付けられなかった瞬には、謝罪することしかできなかった。
 ジウスドラは、しかし、驚いたように、自分より低いところにある瞬の顔を見降ろすばかりである。ジウスドラはまだ自分の父の死を知らないのかと、瞬は訝った。
 ややあってからやっと、ジウスドラが口を開く。冷静な口調だった。
「立ってください。あなたのせいじゃありません。それがわからないほど、僕は子供じゃない」
「……」
 感情の起伏のない、事務的ですらあるジウスドラの声音に一瞬目を見張り、それから瞬はもう一度ジウスドラの顔を覗き込んだ。
 かなり長い間、瞬はそうしていた。
 氷河も絵梨衣も、なぜか二人に声をかけることができなかった。
 やがて、瞬の眉が切なそうに歪む。
「…子供じゃないから悲しくないの? 大事なお父さんだったんでしょう?」
「僕は父を軽蔑していました」
「だから? だから悲しくないの?」
「あなた、僕を泣かせたいんですか? 父を失った子供は、泣くのが義務だとでも?」
 取りつく島もないジウスドラを、それでも瞬は痛ましげに見詰め続けている。
 氷河は、もうやめろと、瞬に言いたかった。もしジウスドラが本当に、父を失った一般的な子供のように悲しみを胸中に抱いているのだとしても、彼は耐えているのだからそれでいいではないか――と。

 だが、瞬は、そうは思わなかったらしい。
「――君が、僕やムスタバルさんを憎んでくれているのなら、僕は何も言わない。でも、君はそんなふうに見えないから…。憎しみもなく、ただ悲しむしかできないってことがどんなに苦しいことなのか、僕、知ってる。誰も憎めないってことが、どれだけ辛いことなのか、僕、知ってるから……」
 涙が零れ落ちたのは、ジウスドラではなく瞬の方だった。瞬が立ちあがり、拳で涙を拭う。
「ご…ごめん。僕が泣いてちゃ、世話ないね。君が我慢してるのに……」
「……」
 瞬は無理に微笑もうとした。
「氷河を助けてくれたの? ありがとう」
 ジウスドラの手を握っていた瞬が、その手を離そうとする。だが、ジウスドラの方が、瞬の手を離そうとしなかった。
「……?」
 訝った瞬がジウスドラを見降ろすと、彼は瞬の視線を避けるようにゆっくりと顔を伏せた。そして、小さくくぐもった声で呟くように言った。
「…僕、父を好きでした…」
 瞬の手を握るジウスドラの手に力がこもる。
「……うん。多分、そうだと思った」
 瞬の声音が初めて、慰めだけの色を帯びた。
「父は絶望にうちひしがれていた。いつも不安そうだった。希望がないから怠惰で、絶望を振り払うための努力もせずに享楽に逃げて、国の王として最低の男でした」
「……」
 ジウスドラが伏せていた顔をあげる。その視線の先にある瞬の瞳に訴えるように、彼は叫んだ。
「でも好きだったんです。ほんとです…!」
「うん」
 瞬が頷き返すと、ジウスドラはたまりかねたように瞬の腕の中に飛び込んできた。そして、瞬の身体にしがみつき、声をあげて泣き始めた。
 瞬が、母親のように白い指で、ジウスドラの髪を撫でる。
「大丈夫だよ。君がお父さんを好きだったってことは、僕にだってすぐわかったんだから。君のお父さんが、そんな大事なこと知らなかったはずがないもの」
 生まれて間もない小さな赤ん坊が、その手に掴んだものを決して放すまいと拳を握りしめるように、瞬の背にまわされていたジウスドラの腕に力がこもる。宮殿のどこにも、ウルクの町のどこにも見付けられずにいた、心置きなく泣き叫べる場所を、やっとジウスドラは見付けることができたのである。
「お父さん…お父さんが死んじゃった…! なんで!? どうして、僕のお父さんが殺されなきゃならないの! 僕のたった一人のお父さんなんだよ! 僕、一人になっちゃう! 僕、一人ぼっちになっちゃうよぉっ…!」
 民のためになることを何一つ為さない王が、民の歓声の中で殺されても仕方がないと悟りきっていたような子供の姿は、そこにはなかった。瞬の胸で泣きじゃくっているのは、分別も何もないただの小さな子供だった。







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