「…………」

 自分は良質の人間ではないと氷河が思うのは、こういう時だった。
 悲しみを我慢できるのならそれに越したことはないと思ってしまう自分と、悲しみを堪えている小さな子供をどうすれば楽にしてやれるのかを考える瞬との、それは決定的で根本的な差異だと、氷河は思った。
 瞬がそんなふうに人の悲しみを癒してやろうとするのは、瞬自身が癒し難い悲しみを抱えているからだということを知っているからなおさら、氷河には、自分と瞬との本質的な違いが辛く感じられてならない。絵梨衣のように素直に貰い泣きもできない自分がみじめでもあった。
 おそらく自分は、瞬よりムスタバルの方に近い人間なのだと思い、氷河はやりきれない気持ちになった。


「ちょっと、あなたっ!」
 それまでジウスドラに貰い泣きしていた絵梨衣が、突然大声をあげる。彼女は、祭壇の前に一人立つムスタバルを、濡れた瞳で睨みつけていた。
「あなた、よく、こんなひどいことができたものねっ! そーよ、やっぱ、どう考えたって、あなた、ただの人殺しじゃない。こんな小さな子泣かして、しかも、あなた、この子の叔父さんなんでしょ! あの王様がどれだけ馬鹿だったって、なにも殺すことなかったじゃない。おまけに、自分の手は汚さずに他人に殺させるなんて、卑怯もいいとこ! そーまでしたのに、蛇だかアルマジロだかの仕組みは動かせないって!? みっともないったら、大笑いよっ!!」
 ムスタバルを責める絵梨衣の怒声を聞いて、ジウスドラは瞬の胸から顔をあげた。そして、頬を涙で濡らしたまま、きっぱりと言った。
「…違います。僕は叔父のせいで泣いたりしたんじゃない。僕が泣いてしまったのは、瞬さんが優しかったからです。それだけです…!」
 言って、また新しい涙を溢れさせたジウスドラの肩を、瞬がそっと抱き寄せる。
 ジウスドラを悲しませたムスタバルを責める絵梨衣、瞬を傷付けたムスタバルを憎む氷河と、ジウスドラを気遣う瞬、ムスタバルを憎むまいとするジウスドラは、全く次元の異なる価値観をもって生きているのかもしれない。
 そう、氷河は思った。
 少しでも瞬に近付くために、氷河は、ムスタバルを殴り倒したいと震える自分の拳を、必死になだめた。
 祭壇の前に呆然と立っている叔父に、ジウスドラが、まだ少し涙の残っている声で告げる。
「蛇の部屋には入らない方があなたのためです。王となり、その部屋に入った時から、父の絶望は始まったんですから」
 それでも、7つの球を奪い返されるのを恐れるように、ムスタバルは2、3歩後ずさった。
「その部屋にあるのは、世界の辿る歴史の予定記録と、蛇の力の残存量を示すパネルや、今回の蛇の召喚を最後に壊れて動かなくなってしまった機械の残骸だけです。僕は、父からそう聞いています」
 ジウスドラの口調は淡々としたものだった。その手はまだ、支えを求めてすがるように瞬の腰にまわされていたが。
「開け方も教えましょうか? ある順番通りに球をはめ込んでいくんです。その日の創世紀元を3乗した数に、前回の春分からの経過日数を掛け、更に次の夏至までの日数を足すんです。12進法でね。その数を2で割り、3で割り、4で割るということを延々繰り返して、その頭七桁が7つのユニークな数字になった時、それが、その日の球をはめ込む順番です。ユニークな数になる前に、その値が7桁を切った時、その日は蛇の部屋を開けることはできません。ちなみに今日は開かない日です。82日後ですよ、次に開くのは」
 一気に言ってから、ジウスドラは小さく吐息した。
「つまり、もう二度と開かないということです」
「え?」
 ジウスドラの呟きに、瞬が微かに小首をかしげる。
 ジウスドラは、ムスタバルに据えていた視線を瞬に移した。少し、ジウスドラの表情が、切なげな子供のそれに変わる。
「父は、今日の祭儀で民に告げるつもりでした。あと10日もしないうちに、このウルクの町が――いえ、ウルもラガシュもエリドゥもすべての町が、水の底に沈んでしまうということを。蛇の部屋の歴史板に、そう刻まれていたのだそうです。父は王になって初めて蛇の部屋に入った時、自分の治世中に蛇の力が尽き、我々の世界が崩れ去ることを知ったんです」
 父の怠惰な生活は、父個人の享楽癖というより、知ってしまった未来への絶望の故だったのだと、ジウスドラは瞬に訴えていた。だから、父を責めないでくれと、父に同情してくれと、暗に彼は言っているのだ。
「そんな大事なことを、なぜもっと早く民衆に伝えなかったんだ!」
「未来のことがわかってたなら、今日自分が殺されることも知ってたっていうの !? 」
 氷河と絵梨衣が、ほとんど同時に大声をあげる。
 ジウスドラは順番に二人の問いに答えた。
「王は民を幸福にしてこそ王です。民に絶望を与えることが、父は恐かったのです。蛇の歴史板に個人のことは書かれていません」
「……」
「代々のウルクの王は、蛇に与えられた文明の上に安穏としすぎました。蛇の力が尽きることを、王たちは知っていたんです。だのに、己れの権力保持のため、蛇の仕組みを独占し続けた。すべての町のすべての民に蛇の仕組みを公開していたなら――二千年の時があったのです。皆で蛇の仕組みの力の源が何なのかをつきとめることもできたでしょうに…。でも、もう、時間はありません。蛇の力が尽きかけて気圧操作ができなくなり、乾燥と砂漠化に悩んでいたのに、皮肉なことに、蛇の文明は洪水に押し流されてしまうんです」







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