第六章  ディルムンの別れ





「あそこがディルムンだったのか…」
 有翼円盤の船室のパネルに映る小さな島を見詰めながら、氷河が呟く。
 三人は、この世界に初めて来た時の服装に戻っていた。
「ディルムンって何よ? 知ってるの、城戸くん」
 着慣れた膝上キュロットの身軽さと、やっと家に帰れるのだという喜びのせいで、絵梨衣は上機嫌である。昨夜は嬉しくて、ほとんど眠れなかった。
 対照的に氷河は、瞬が蛇の部屋を開けるのを見た時からひどく不機嫌そうだった。もっとも絵梨衣は、それまでも"機嫌のいい氷河"というものを見たことはなかったので、彼の不機嫌そうな様子には大して気もとめず、例によって例のごとく瞬に向き直った。説明は瞬の仕事。絵梨衣はそう決めつけていた。
 瞬が、彼にしては珍しく瞳の笑っていない微笑を作る。
「ディルムンっていうのは、楽園伝説の島なんです。エデンの園のあったところだとも言われてる。僕たちの知ってる地図で言うなら、バーレーン。ペルシャ湾に浮かぶ小さな島です」
「ふーん。…で、そのペルシャ湾って、どこにあるの?」
「えっ?」
 それは瞬にとって言語を絶する質問だったらしい。さすがの瞬が、フォローできずにぽかんと口を開けて絵梨衣を見る。
 馬鹿なことを訊いてしまったということは、絵梨衣にもすぐわかった。慌てて話を逸らす。
「エ…エデンの園? じゃあ、蛇っていうのは…」
 逸らした先が悪かったのか、今度は急に氷河が悪鬼のような形相で絵梨衣を睨みつけた。
 思わずひるんでしまった絵梨衣の言葉の先を、静かな口調で瞬が継いだ。
「男【アダム】でも女【エヴァ】でもないもの…そうでしょ? ジウスドラくん」
 別れの言葉を交わしたいと、ジウスドラは宮殿の各部屋にセットされていた万能翻訳機を一つ船の中に持ち込んでいた。それは、野球の硬球ほどの大きさの黒い球だった。
 その球と船を動かすための銀色の球を、腰を降ろしている長椅子の横に置いていたジウスドラが、ためらいがちに頷く。
「――そうです」
「瞬っ!」
 突然大声をあげた氷河に絵梨衣はびっくりしたのだが、瞬には動じた様子もない。氷河を見やり、切なそうな目をして彼は親友に言った。
「気付いてたくせに」
「ど…どういうことよ」
 自分だけが話についていけていないような気がして、絵梨衣は氷河と瞬を見た。
 瞬が、一瞬ためらってから、抑揚のない小さな声で言う。
「僕…男でも女でもないんです」
 瞬の告げた言葉の意味を絵梨衣が理解するより先に、氷河の怒声が船内に響く。
「瞬っ! 言う必要はない!」
 さして広くない船室だというのに、氷河の大声の反響は聞こえない。船室の壁は、音を吸い込むような素材でできているらしかった。
「でも…僕のせいでこんなことに巻き込まれたんだよ。氷河も絵梨衣さんも」
「おまえのせいなもんか! この世界の奴らが腑抜けだからだ」
「氷河…!」
 瞬がたしなめるように氷河の名を口にしたのは、ジウスドラを気遣ってのことだったろう。だが、ジウスドラは、自らの――自分たちの非を認めるのにやぶさかではなかった。
「本当のことです。瞬さんにはご迷惑をおかけしました」
 すべてのシュメールの人々の命を、これからその細い肩に背負おうとしている小さな少年に、この上過去の罪科まで押しつける気にはなれない。瞬は左右に首を振り、それからジウスドラの顔を覗き込むようにして、彼に尋ねた。
「蛇…って、どういうものだと言われてるの? 僕、まだ詳しく知らないんだ。教えてくれる?」
「あ…はい」
 ジウスドラが黒い球を握りしめる。
 彼の頬に僅かに赤みが差しているのが、氷河の気に障った。







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