「蛇は美しい女性の身体を持ち、だが女性ではないもの、と伝えられています。2242年前、蛇は、神の命を受けて、あのディルムンに降り立ち、あの島を支配していた一人の英雄に会ったんです。蛇は英雄に望まれ、彼の妻になりましたが、彼に子供を与えることはできませんでした。だから代わりに、その知恵と力とで、英雄にウルクの王位を授けたのだそうです。それからしばらくは幸福と平和の日々が続きましたが、やがて蛇は蛇の世界に戻らなければならなくなった。離れ難く蛇を愛していた英雄は、民の中から後継者を選び、自身は蛇と共に蛇の世界に旅立ったんだそうです。蛇の世界で、英雄は永遠の命を与えられ、今も僕たちの世界を蛇と共に見守り続けている――というのが、ウルクに伝わっている蛇の伝説です」 「永遠の命と知恵を与える人を超えた存在、ね! ありきたりだ。どこの神話にもある陳腐な話だ」 小馬鹿にしたように、氷河が茶々を入れる。 瞬はそれを聞き流した。 「じゃ、ほんとに肉体的な類似しかないんだね」 「肉体的な類似って何よ。雪代くんって男の子でしょ。男子校に通ってて、彼女までいるんだから」 "世界でいちばん可愛く見える彼女"がいると明言した瞬が"女性の身体"を持っていていいはずがない。絵梨衣は思わず、瞬の胸の辺りをまじまじと見詰めてしまっていた。 だが、薄い絹の短衣をまとっていた時にも、絵梨衣は瞬の肢体を少女に見間違えたことはなかったのである。白いYシャツを身に着けている今の瞬はなおさらだった。絵梨衣の前にいるのは、細く柔らかい線で――だが決して女性特有の曲線では描かれていない肢体を持った、一人の少年だった。 混乱しまくっている絵梨衣に、瞬が、困ったように笑ってみせる。 「ごめんなさい。その彼女っていうの、ジョークなんです。僕と一緒にプラネタリウムに行ってくれる彼女って、氷河のことなの」 聞いて、絵梨衣の混乱はますます大きくなる。 「え? えっ? じゃ、雪代くん、ほんとは彼女なんていないわけ? ん…んじゃ、雪代くんと城戸くんって、やっぱりホモなの?」 「なんだよ、その"やっぱり"ってのはっ!」 「やっぱり、でしょっ! 最初っからアヤしげだったもん。雪代くんはともかく、城戸くんはっ!」 絵梨衣にきっぱり断言されて、氷河は苦虫を噛みつぶしたような顔になった。 そっぽを向いてしまった氷河を庇うように、瞬が静かな声で話し始める。 「…母親のね、胎内にいる時にSRY遺伝子が未発達だと、僕みたいなのができるんだって。――染色体は男で、表現体は女。中でも僕は特殊で、乳房がないんだ。子供の頃は、自分を普通の女の子だと思ってたよ。髪も長く伸ばしてたし…。でも、自分を普通の女の子だと思っていられたのも、中一までが限度だった」 瞬の言うことが、絵梨衣は、やはりよく飲み込めなかった。ただ、瞬が"髪の長い女の子"をしていたら、それはさぞかし目を見張るような美少女だったに違いないと、絵梨衣は的外れなことを考えていた。 「中二になっても第二次性徴といえるものが少しも起こらないんで検査を受けて、それでわかったんだ。僕は女じゃないってことが」 「そ…んな…」 「それどころか、僕は男ですらなかった。卵巣機能も精巣機能もない仮性雌雄同体。…動物の生きて存在する目的が種の保存だというのなら、僕には全く存在価値がないってことだ」 「そんなこと…」 絵梨衣にわかったのは、瞬の自己卑下の理由だけだった。男でも女でもないということがどういうことなのかは、やはりよくわからない。それまでずっと女の子だと信じていた自分が実は女の子ではなかったとわかった時の衝撃も、多分当人でない限り、真実理解することはできないのだろう。 「そんなことないわよ! 子供のない人なんていくらでもいるし、私だって、この先ずっとモテなくて、彼氏にも結婚にも子供にも縁がないままかもしれないじゃない。だからって、存在価値がないなんて誰にも言えないと思う。人間が生きてる理由って、そんなことじゃないでしょう!」 人間の存在理由など、絵梨衣はそれまで考えたこともなかった。否、それは考え始めると考え続けていることが不吉に思えてくるテーマで、結論が出たこともなかった。 だが、絵梨衣は瞬のために力説した。 瞬が悲しそうに微笑する。 「…存在価値がないからって消えてなくなるわけにもいかないし、だから、僕、開き直ったんです。一生ひとりで生きていかなくちゃならないのなら、男として生きていく方が何かと有利だろう…って。だから、中学は女の子で通したけど、高校は聖和を選んだ。僕の中学から進学する生徒が一人もいなかったし、自宅通学せずに済むから、女の子だった僕を知ってる人たちから離れられる」 瞬は理詰めで聖和進学を決めたのだろうか。絵梨衣には、そうは思えなかった。多分、瞬はすべてを諦めるために、聖和に進学したのだろう。ある程度身の程と現実を知っている絵梨衣でさえ心のどこかにまだ少し残っている少女らしい夢と憧れは、瞬の場合、決して叶わないものではなく、実現可能な夢と憧れだったのだろうとも思う。 身体のことさえなければ――。 絵梨衣の考えていることを察したのか、瞬は口許をきつく引き結んだ。 「僕、それまで誰かを好きになったこともなかったし――そうだね、本当は何もかもを諦めようとして、聖和に来たんだ。なのに、僕は、聖和に来た途端、氷河に会った」 氷河との出会いが、何を、瞬にもたらしたのかは、あえて尋ねるまでもない。絵梨衣は黙って頷いた。 「男同志の友情なんてものにも、ちょっと憧れてたし、僕、最初のうちは、氷河といるのが楽しかった。くすぐったいくらい楽しかった」 「…?」 瞬はなぜ過去形で言うのかと、絵梨衣は訝った。三駅も離れた絵梨衣の学校でも、瞬と氷河は有名な二人だった。いつも一緒にいる親友同士――。たとえ看板に偽りありで、実は恋人同士だったのだとしても、互いに好き合っていつも側にいられるのなら、"楽しい"という気持ちは過去形になどなりえないのではないのか。 「なに、それ。今は楽しくないみたい。それって変じゃない。雪代くん、城戸くんを好きなんでしょ。城戸くんもそうなんでしょ。違うの?」 絵梨衣は、瞬と氷河を交互に見比べた。それから、悪いのは氷河の方に違いないと判断して、氷河を睨みつける。 絵梨衣の視線の先で、氷河は嘆息した。 「1年以上、自分はそーゆー趣味の持ち主なのかと苦悩しまくって、悩み抜いたあげく、結局黙っていられなくて、俺は玉砕覚悟で瞬に告白した」 照れているのか、それとも、そんなことは第三者に言うことではないと思っているのか、氷河は苛立っているようにもとれる口調で、絵梨衣に告げた。 当然のことと納得し、絵梨衣がこくこく頷く。 「うん。それでハッピーエンドじゃない。何か問題あるの」 「俺にはない」 氷河の返答にも、絵梨衣は頷いた。 「そうよね。雪代くん、優しいし、綺麗だし、頭もいいし、気がきくし、悪口雑言男の城戸くんにはもったいないくらいできすぎた彼女――彼氏かな――ま、どーでもいいや。もったいないくらいできすぎのパートナーよね」 「俺もそう思う」 今度は氷河が真顔で頷く。 瞬は泣きそうな目で、氷河を見ていた。 「僕が男でも女でもないってわかった時、ママは――僕の母は、僕の10倍も泣いたよ。たとえば僕が手足を失ったり、目が見えなくなったりしたのだったとしたら、ママはあんなに泣かなかったと思う。逆に僕を励ましてくれたと思う。ママが泣いたのは、僕には子供を作れないってわかったからだよ。ママがあんまり泣くから、僕はそれがどれだけ重要なことなのか思い知ったんだ」 「あのなぁっ! 俺はおまえを男だと思ってて、それでもおまえを好きだって気持ちがどうにもならなくて、だから、好きだって告白したんだぞっ。子供もくそもあるかっ!」 氷河の怒声には、絵梨衣も同感だった。誰かを好きになる時、普通の人間は子供のことなど考えもしない。瞬は特別な状況にあったのだろうが、それでも、そんなことは恋の感情とは関係のないことのはずである。 「おまえは、おまえの身体のこと、俺に隠さずに言ってくれたし、俺はそれでも構わないと思った。おまえだって、俺を好きだと言ってくれたじゃないか。どうしてそういつまでも、そんなどうでもいいことをぐちぐち言っているんだっ!」 実に全くその通りである。珍しく、絵梨衣は氷河の側に立っていた。 だが、瞬の心は、絵梨衣などよりずっと繊細かつ複雑にできているらしかった。瞬が、まるで氷河と視線を合わせるのを恐れるように、顔を伏せる。 「それでもいいって、氷河、言ってくれるから……だから…。僕、そのうち氷河の重荷になる。それが嫌なんだ」 「ならない! 何度言ったらわかるんだ。おまえが俺から離れていく方が、俺にはずっと辛いんだと言っただろーが! それくらい、おまえにだってわかるだろう!」 「……」 瞬は、それには答えなかった。 わかっているから離れずにいるし、離れずにいるから辛さが消えないのである。それは、瞬も氷河も既に痛いほどに思い知っている現実だった。 辛そうな二人を見ていた絵梨衣にも、やっと彼らの関係が見えてきていた。 (雪代くんが、誰も憎めなくってただ悲しむのが辛い…って言ってたの、自分の身体のことだったんだ…) 自分ならきっと親を逆恨みする――と、絵梨衣は思った。だが瞬には、そうすることもできなかったのだろう。おそらく、瞬は、その容姿や種々の資質だけでなく、両親の愛情にも恵まれていたに違いない。 絵梨衣自身に比して、瞬や氷河は何もかもに恵まれている、恵まれすぎていると、絵梨衣はずっと彼らを羨んでいた。だが、人生の何もかもが順風満帆という人間は、やはりなかなかこの世には存在しないものらしい。氷河に愛されれば愛されるだけ、瞬の負い目は大きくなっていくのだろうし、そんな瞬を救ってやれない無力感は、氷河を打ちのめせるだけ打ちのめすことになるのだろう。 これは、誰にも解決できない問題である。そして多分、瞬の中から永遠に消えることのない葛藤なのかもしれない――と、絵梨衣は思った。 船内を、重苦しい沈黙が覆いつくす。 ジウスドラが無言で、瞬の辛そうな横顔を盗み見ていた。 |