大通りに出ると、急に車の行き交う音が大きくなる。廃棄ガスのせいか空気が不味く感じられて、絵梨衣は顔をしかめた。数日前まで、自分の住んでいる町の空気が汚れているなどとは、絵梨衣は感じたことがなかった。数千年の時をかけて、人間は地球を汚せるだけ汚してきたのだと、絵梨衣はしみじみ思ったのである。 腰を落ちつけた喫茶店の電子時計で、絵梨衣たちは、シュメールでの数日間がこちらの世界の一分にも満たない時間だったということを確かめることができた。 「ジウスドラくん、うまくやったのかなぁ…」 運ばれてきたアイスティーの氷をストローでかき回しながら、最初に口を開いたのは絵梨衣だった。 三人は、喫茶店に入ってからずっと黙りこくっていた。それぞれに思うところがありすぎて、何を言えばいいのかわからなかったのだ。 沈黙恐怖症というのではないが、それぞれがそれぞれの思いに浸っていると、瞬の考えが悪い方向に――後悔という方向に――向かっていってしまいそうで、絵梨衣はそれが嫌だった。 「うまくやったんだろうな。洪水と方舟の伝説は、アッシリア、バビロニア、聖書の記述にも残ってるが、どの記録でも誰かが生き残って文明の再生を果たしている。あの小生意気なガキ、俺を出し抜こうとするくらい狡賢いんだし、万事抜かりはなかったろう」 「そーよね。きっとムスタバルさんも罪滅ぼしのために協力しただろうし」 やっと氷河が口をきいてくれたのに安堵して、絵梨衣は笑った。が、絵梨衣は安堵したせいで口を滑らせてしまったらしい。氷河はムスタバルの名前を聞くと、途端に不機嫌になった。 「あんな馬鹿野郎のことは口にするな。あんな奴は、罪滅ぼしついでに死んじまえばいい」 吐き出すように言う氷河に、絵梨衣は目を白黒させた。確かに彼はすべての元凶というべき存在ではあるし、実の兄を死に至らしめた殺人者でもある。だが、父を殺された当のジウスドラ本人が彼を憎むまいとしているというのに、傍で第三者が彼を憎悪するのは、何か違っているような気がした。 「城戸くん、どんなクズ野郎でも弁護できるから、弁護士になるんじゃなかったの?」 「瞬を傷付ける奴は別だ」 即座に明確な答えが返ってくる。絵梨衣も納得せざるをえない、そして有無を言わせない答えだった。 「…失礼しました。ご馳走さまです」 幾分おどけて、絵梨衣は氷河にぺこりと頭を下げた。 氷河の隣りで、瞬が――なぜか青ざめた頬をして俯いている。また何かマズいことを言ってしまったのかと慌てて、絵梨衣は話題転換を図った。 「あ…あのさ…私たちの世界、あと十年ちょっとで滅びるって、ほんとだと思う?」 氷河も瞬の沈んだ様子が気掛かりらしい。これほど重要なテーマに、彼はあまり関心を示さなかった。 「西暦2010年代に世界が滅びるって説は、腐るほどあるんだ。古典期マヤ人の予見では2012年、ジーン・ディクソンの予言では2005年から10数年間の最終戦争が始まることになってる」 うわの空でも蘊蓄を垂れることができるあたり、さすがとしか言いようがない。 「それって、私たちにはどうしようもないことなわけ? 私たち、何かできないの?」 「ま、とりあえず、ノートは再生紙のやつを使って、エコロジーに努め、平和主義に徹することにしとくんだな」 「なんか頼りないなー…」 瞬の様子を窺いながら、絵梨衣が呟く。 たまりかねて、氷河は瞬の名を呼んだ。 「瞬…」 元の世界に戻ったことを後悔しているのか?――と、言外に彼が尋ねる。 瞬がそれを察して、横に首を振った。 「…そうじゃないんだ、氷河。ただ…」 「ただ?」 「…蛇って誰だったんだろう…って…」 「へ?」 氷河が間の抜けた声をあげる。そして、彼は突然元気になった。当然である。瞬が思い悩んでいるのが、そんな"どーでもいいこと"だと知って、氷河が元気にならないはずがない。 「俺としては、宇宙人説が好みだな。有史以前に現代以上の文明を持った人類がいたって説は、それらしい人骨が発掘されたことがないから今いち信じられないし、あとは、未来人が、それこそタイムマシンでも発明して過去に文明を築いたってパターンか? これも可能性が皆無とは言えないか。実際、俺たちは過去に行くことができたんだから。まあ、いずれにしても、異世界人ってパターンはない。これだけは断言できる」 絵梨衣への嫌味が言えるほど、氷河は浮上していた。 絵梨衣が口をとがらせる。 瞬は、そんな二人を交互に見やり、また顔を伏せた。それから、小さな声でぽつりと言う。 「蛇は…未来の僕じゃないよね…」 「な…」 瞬の呟きで、氷河と絵梨衣は、何が瞬を不安にさせているのかを知った。本当に自分がシュメールの伝説の蛇なのではないのかと、瞬は恐れていたのだ。 「未来の僕が何もかもに絶望して逃げ込んだ先が、シュメール創世の頃だった…なんてこと、あ…ありえないよね?」 「なんで、おまえが。おまえが何に絶望するっていうんだ」 「……」 瞬は答えない。答えられなかった。 瞬が絶望する時――それは氷河にうとまれ、氷河を失う時以外ありえなかった。瞬に答えられるはずがない。 「や…やだなー。秀才って、おかしなこと考えんのね! ゆ…雪代くん、いなくなったら、城戸くん、どーなっちゃうのよ。たとえこの先タイムマシンなんて馬鹿げたものが発明されたって、雪代くんが一人でどっかに行っちゃうのを、城戸くんが許すはずないじゃない」 絵梨衣は内心焦りながらも、大声で瞬の考えを否定した。 雌雄同体の中でも瞬は特殊な例なのだと、瞬自身が言っていた。だが、世界中に、そしてシュメールから現代までの数千年間に、その例が瞬一人しかいなかったということがあるだろうか。だのになぜ、蛇の仕組みは瞬を選んだのか。瞬が本当に蛇その人だったからなのではないだろうか。 蛇の指輪に刻まれていた文字が脳裏に浮かんできて、絵梨衣は、その記憶を無理やり振り払った。瞬の手によって蛇の部屋が開けられたことも、大人になった瞬は伝説になってもおかしくないほど美しくなっているだろうという想像も、絵梨衣はすべて打ち消した。 そんな未来は、絵梨衣こそが受け入れたくなかったのである。 「――そんなことを考えるのはやめろ。俺は許さないぞ。俺からおまえを奪う奴も、おまえが俺から離れていくのも」 氷河のそれは、命令口調の懇願だった。 淡々として抑揚のない口調だというのに、絵梨衣は氷河の迫力に圧倒されてしまっていた。彼氏がいないどころか、誰かを好きになったこともない絵梨衣としては、同い年でこの違いは何なのだろうと、腰がひけてしまうほどだった。 「あっ…あのさっ、雪代くん。もし雪代くんが蛇だとしたらさ、ほら、あのシュメールの英雄だか王様だかと結婚することになるわけでしょ。やめなよ、そんな想像。城戸くん、みじめじゃない。こんなに雪代くんのこと好きなのに、フられちゃうなんて」 瞬の不安を払拭するのは自分の義務だと絵梨衣が思ったのはなぜだったろう。何かに突き動かされるように、絵梨衣は、瞬を説得しようとした。 搦手からの攻撃は、かなり効果的だったらしい。瞬は瞳を見開き、激しく横に首を振った。 「そ…そんなこと、あるはずないよっ! 僕は――僕がそんな…!」 その効果の程に驚いた氷河が、目をぱちくりさせる。必死に訴える瞬の手に自分の手を重ね、氷河はしみじみと言った。 「相沢。おまえ、ほんとに頭いいな」 それは本心からの言葉だったのだろうが、彼の普段の言動を考えると、どうも素直に受け取れない。 絵梨衣が氷河に一言物申してやろうとした時、 「絵梨衣! 絵梨衣じゃない!」 「あんた、なんて人たちと一緒にいるのよっ」 「男なんてみんな馬鹿だーって、いつも言ってるのにー」 突然湧いて出て、絵梨衣たちのテーブルの脇でわめき始めたのは、絵梨衣の噂好きなクラスメイトたちだった。 「うっ…うるさいなっ。あんたたちこそ、なんでこんなトコいるのよっ! 余計なこと言わないでよっ」 聖和の秀才ふたりを前に、『男なんて馬鹿だ』も何もない。絵梨衣は、悪友たちを黙らせるために椅子から立ちあがり、悪友たちより大きな声を出して彼女たちのお喋りを遮った。 氷河が、ちらりと意味ありげな視線を絵梨衣に投げてくる。 「全く、男ってのは馬鹿だ。ペルシャ湾の位置なんか知らなくても、おまえが頭がいいことは、俺も認めるぞ」 「ペルシャ湾の位置も知らなくて悪かったわねっ。横浜港なら、私だって知ってるんだからっ!」 つい喧嘩腰になってしまった絵梨衣と氷河の仲裁に入ったのは、当然のことながら瞬だった。話を逸らすのがいちばんと思ったのか、瞬が、にっこりと、もったいないくらいの笑顔を絵梨衣の悪友たちに向ける。 「絵梨衣さんのお友だち?」 「美穂ちゃんでーす」 「春麗でーす」 「三波春夫でございまーす」 最近校内でリバイバルヒットしている化石コントを、氷河と瞬の前で、華麗に演じきったクラスメイトたちに、絵梨衣は思いっきり青ざめてしまったのである。 ギャグの意味がわからなかったらしい瞬が、リアクションに困って幾度も瞬きを繰り返している。 (み…みんなの馬鹿ーっ !! ) ぽかぽか殴られている三波春夫の笑い声で、絵梨衣は、日常が身近に戻ってきたことを、うんざりするほどしっかりと実感できてしまった。 蛇の造った楽園は、今は遠い過去のものなのだ――と。 |