氷河は――ちょっと普通じゃなかったかもしれない。氷河は、なにしろ滅茶苦茶カッコよくなってしまったんだ。
 僕が高三男子の平均より二、三センチ低いところでうろちょろしているうちに、氷河の頭は平均より二十センチも高いところにあって、僕は視線の角度をかなり上に向けなければ氷河の顔を見ることができなくなっていた。だから、子供の頃よりはずっと氷河の顔を正面から見る機会は減ってしまったんだけど、たまに――氷河が机で頬杖をついたり、しゃがみこんだりした時に――その顔を覗き込むと、僕はハッと息を飲むことがある。
よく『美人は三日で飽きる』なんて言うけど、それは嘘だと僕は思う。もしホントに三日で飽きるような美人がいるとしたら、その人はよっぽど何も考えない人なんだろう。これは、美人に限ったことじゃないだろうけど、人の面差しは毎日変わるものだ。その時の気分、機嫌、考えていることや体調まで、すべてが複雑に絡まり合って、人の表情はできている。整いすぎるほど――機械が刻んだ彫刻のように整った氷河の顔だちは、僕の目に毎日違って見えるし、その顔だち――というよりは眼差し――には、不思議な深みがあるように感じられる。多分僕は、氷河のその不思議な色をした瞳の奥底まで見切ったことがないから、氷河の端正な顔を見飽きることがないんだろう。

 氷河は時々子供のような目で僕を見るし、時にはびっくりするほど大人びた眼差しを向けてくることもある。

 氷河が言うには、氷河は僕にひどく複雑な感情を抱いているんだそうだ。
「だって、おまえ、ときたま、びっくりするほど俺の死んだお袋に似てるんだぜ」
とは、氷河の弁。

「なーんか複雑な気分だよなー。親友で、しかも同い年の男のおまえに母親が重なるなんて、俺のマザコンも変な方向に屈折し始めたって感じだよなー」
 そう言って氷河はいつも鼻の頭をこする。

 が、実際氷河がマザコンなのかどうかは疑わしいと、僕は思っている。氷河は、自分で自分をマザコンだと吹聴して、その噂を利用しているようなとこがあるんだ。女の子を躱そうとする時なんか、特に。氷河は、そういう時は僕までダシに使う。

 あれはいつだったか――そう、もうすぐ僕たちが高三になろうという冬の終わり、卒業式の予行練習のあった寒い日だった。氷河を捜してバスケ部の部室に入ろうとした時、一人の女の子が氷河に付き合ってくれと言っているところに出くわしてしまったことがある。
 女の子――というのは失礼かもしれない。
 彼女は僕たちより学年が一つ上で、つまりは、もうすぐこの高校を卒業していこうとしている先輩で――だから、そんな思い切ったこともできたんだろう。氷河に面と向かって付き合ってくれなんて言えるのは、余程の自信家か、余程の身のほど知らずか、余程切羽詰まった状況に置かれているかのどれかだったろうから。

 真剣そのものの表情をしている彼女と、間の悪いところに来てしまったと戸惑っている僕を交互に見やってから、氷河は肩をすくめて笑った。
「先輩。俺がなんで瞬と親友付き合いしてるか知ってるか?」
 氷河が尋ねると、彼女、答えて曰く、
「弓崎くんが高生加くんのお母様に似ているからだって噂ね」
「なんだ、知ってるんじゃないか」
 氷河は、得たりとばかりに頷いた。
「その噂って、噂じゃなくまるっきりホントのことでさ、俺ってすげーマザコンなんだ。だから、瞬より綺麗な女相手でないとその気にはなれない」
「氷河!」
 先輩とはいえ、女の子相手にそんな言い方があるだろうか。断るにしてももう少し当たり障りのない断り方ってものがあるだろう。

 僕に責めるように名を呼ばれても、氷河は悪びれた様子も見せなかった。
「ついでに、瞬より頭が良くて、瞬より性格いい女の子がいいな。なにしろ、俺のマザコン、病的だから、そんじょそこらの女じゃ役に不足でさ」
 なおも言い募る氷河に、彼女は気丈に言い放った。
「いい度胸。他の三年女子にも同じようなこと言って追い払ったわけ?」
「うーん。ま、似たりよったりだな。卒業シーズンってのは、あんたみたいな手合いが増えるから、いちいち違う決めゼリフ考えてる暇がなくてさ」
「中学の時から、その決めゼリフ変わってないって噂だけど」
「進歩がない男なんだ、俺は」
 今度は、その三年生が肩をすくめた。苦笑いをしても、美人というのは様になる。
「ま、仕方ないか。弓崎くんがライバルじゃ、私には太刀打ちできそうもないし」
 彼女は、氷河の後ろに隠れるみたいにしていた僕をちらりと横目で見やってから、もう一度氷河の上に視線を戻した。
「私、T大に進むのよ。多分これからもこの辺りをうろついてると思うから、街で会った時には挨拶くらいしましょ」
「へー。あんた、頭いいんだ。T大って、瞬の志望大学じゃないか」

 無神経なのか屈託がないのか――と、氷河を知らない人なら思うだろう。こういうシーンで、第三者(僕のことだ)のことばかり引き合いに出すのは、女の子に対する思いやりがないと思われても仕方がない。でも、僕は知ってる。氷河はわざとそう言ってるんだ。相手をすっきり諦めさせるためと、傷付けないため。同性と比較されて交際を断られるのと、異性に比較されて断られるのとでは、女の子は圧倒的に後者の方を好むものらしい。『女はみんな同業者』とはよく言ったものだ。

「私、性格も結構いいの。弓崎くんに敵わないのは美貌だけよ」
 二人の間にはもう打ち解けた空気が流れていて、彼女は僕にまで邪気のない笑みを投げかけてきた。
「じゃ、その気になったら、いつでも声かけて」
 そう言って部室を出ていった彼女を、僕は半分呆けたまま見送った。その僕の肩を、氷河が軽く突つく。
「俺たちも帰ろうぜ、瞬。ガッコにいると、次のが来ちまう」
 氷河は慣れているんだろう。女の子に告白されるのも、それを断るのも。何事もなかったような表情をして、氷河は僕の顔を覗き込んできた。

「お…女の子って勇気あるんだね。びっくりした」
 どもりながら僕が言うと、氷河は唇の端を微かに歪めた。
「勇気ならまだいいけど、無分別なのや無鉄砲なのも多いぞ。今のなんかマトモな方だ。ひどいのになると、断られた途端に、俺がマザコンだって噂を流してやるとか、ホモだって言いふらしてやるとか言い出すしよ」
「え…」
「そーんな噂流したって、今更誰も面白がらないのにな」
「氷河…! そんな呑気なこと言ってる場合じゃないでしょ! そんな噂流されたりしたら大変じゃない!」
 あんまり氷河がのんびりした顔してるんで、僕の方が慌ててしまった。氷河は別の意味で、そんな僕に驚いたらしい。一瞬あっけにとられたような表情になり、それから氷河はぼやくように言った。
「きっと校内でおまえだけだぞ。その噂、知らないの」
「……」

 確かに僕はそんな噂を聞いたこともなかった。知って、だが、どうにもならなかった。
 深刻さのまるでない氷河の態度は、その噂を面白がっているようだったし、実際、そんな噂に興じている生徒たちも、その噂の内容を信じて噂しているのではないことは確実だった。
 氷河は、明るく一本気かつ健康的な高校生で、プラス思考とメジャー志向の塊りなんだから。女の子を片っ端からフッてまわっているのも、氷河に"その気"があるからではなく、氷河には氷河の理想があるからなんだ。

「俺は、うちの親父みたいに、死んだ後もずっと思い続けられるくらいの女を見付けるんだ。そんな女を見付けるまで、余計な寄り道はしたくねーなー」
と、氷河は言う。照れくさいのか何なのか、僕にしかそういうことは言わないが、要するにマザコンだのホモだのという噂は、氷河の本音を隠すためのいい隠れ蓑になっているんだ。

 僕は、氷河はむしろファザコンなのだと思う。
 今年四五歳になる氷河の父は、後ろ楯一つないところから今の地位を築いた立志伝中の人物で、金融業界ではかなりのやり手と評判が高い。なにしろ忙しい人なんで、僕も新聞や経済誌でしかお目にかかったことはないが、面差しが氷河にそっくりで――つまりは、かなり整った顔だちで――日本経済界随一の――もとい、唯一の――美形というので有名な人だ。そこいらに転がってる俳優など目ではないらしい。自信と、それに伴った実力と威圧感をその身に備えた人だというのは、氷河が時折洩らす父親評から容易に推察できる。女性にももてるらしいのだが、
「親父は亡くなったお袋一筋なわけ。だから、息子のこと放っぽっておく無責任親父でも、なんとなく許してやっかーって気になるんだよな」
――ということだった。

 並外れた洞察力、判断力、経済力、ついでに美貌と色気まで持ち合わせた豪胆な父が、その死後十数年を経た今もなお愛し続けている亡き妻――それほどの女にめぐり会ってみたい――というのが、氷河の悲願なんだ。あの父にそこまで愛されるなら、自分の母は素晴らしい女性だったに違いないと氷河は考え、だから氷河はマザコンを自負している。

 けど、実際のところ、氷河には母親の記憶はほとんどないらしい。出来すぎた父親への劣等感が、しかしそれを認めたくないという気持ちが、氷河の心を亡くなった母親に向かわせているように、僕には思える。

 だが、氷河には氷河の父以上の男になりうる可能性があると僕は信じているし、氷河自身、出来すぎた父親へのコンプレックスを良い方向に作用させるように、自分をうまくコントロールしているところがある。氷河の未来は、だから洋々としたものだと、僕は確信していた。
 僕にできるのは、ただ、その洋々たる氷河の未来を壊さないように気を配ることだけ、なんだ。
 そのためになら、僕は多分何でもできる。どんなことでもするつもりだった。

「お袋以上の女を見付けて、親父に自慢してやるんだ。とりあえず、女はその一人だけでいい」
 そう言い切る氷河が、僕は好きだった。

 僕の母は、僕が中学に入学するのと同時に新しい夫を迎えていた。






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