高校三年の六月、氷河は受験勉強に本腰を入れるため、クラブ活動――バスケ部だった――から手を引いた。 西東京予選大会ベスト8が最終成績。 清和高校としては学校創立以来の好成績だったが、これは進学校清和の限界というのではなく、バスケ部の監督をしていた僕の限界というべき成績だった。僕は、氷河に点を取らせるための采配はできても、チームを勝利させるための采配はできなかったんだ。 準々決勝で負けた時、チームのみんなは、ここまでこれたのは僕のおかげだと言ってくれたし、氷河自身さばさばした様子でいたが、 僕は心の中でみんなに詫びていた。他チームの情報収集もゲームの組み立ても、僕は一生懸命やったけど、それはチームのためじゃなくて、氷河のためだけにしてたってことを、あの敗退の時に僕は初めて自覚した。 あんまり僕がしょげてるんで、みんなは僕のために――氷河のワンマンチームを作ることに心血を注いでいた僕のために――激励会まで開いてくれた。僕は、みんなに謝罪するために、本当のことは何も言わず激励された振りをした。 氷河のためでなければバスケ部の監督なんて僕には続けられなかったろうから後悔はなかったけど、みんなの励ましや感謝の言葉は、僕にはひどく辛く響いた。 その後ろめたさを、けど、僕はやがて氷河のために忘れていった。 清和高校に入る時は首席入学で、入学式の新入生代表まで務めた氷河が、この二年とちょっとの間に二百番近く成績が落ち込んでいて、僕はそれを挽回させなければならなかったんだ。 「で? 俺はどれくらい席次をあげれば、おまえと同じ大学に入れるんだ?」 こともなげに、氷河は僕にきいてきた。 それまで氷河が真面目に試験を受けていなかったのは、普段の試験で良い成績を取ることに、必要性を感じていなかったからだ。氷河は、自分が必要だと思ったことや好きなことのためにしか、その情熱と才能を傾けようとはしない。だが、その気になってさえくれれば、氷河は何でも人並み以上にこなせることを、僕は知っている。だから、 「とりあえず、二学期の中間までには校内で首席をとってほしいな」 と、僕は至極あっさり答えた。 「二番手くらいにしといてくれよ。俺は二年間バスケばっかりやってたってハンデがあるんだぜ。四、五カ月でおまえを追い越すのはきつい」 「クラブのハンデなんかないよ。氷河がボール追っかけてる間、僕はいつもベンチにいたんだから」 「うへ、きびしー」 その時は、見事にシンメトリーな顔をくしゃりと歪めて嘆息した氷河だったが、もちろん、二学期中に、氷河は僕の提示した課題を軽くクリアしてくれた。氷河は、そういうことが簡単にできてしまう人間なんだ。 人間っていうのは、社会的には平等に扱われるべきものだと思うけど、個々人の才能・能力っていうのには明確な差があるものだと僕は思う。っていうか、氷河は好きなことや必要だと思ったことのためになら、努力を苦労と思わずに努力できてしまう人間なんだ。努力できるっていうのは、ものすごい才能の一つだと、氷河を見ているとつくづく思う。 「瞬は教え方がうまいからなー。…いや、瞬は俺をノせるのがうまいんだ。俺は単純にできてるから、『氷河にならできるよ』なーんておまえに言われると、すぐその気になっちまう」 そう言って氷河は僕を持ち上げてくれたけど、その成果は氷河の努力と集中力の賜物だとわかってるから、僕はあまりいい気になってもいられなかった。 「この線を守っとけば、とりあえず、おまえと同じ大学でまた四年一緒にいられるな」 そう言う氷河に、僕は薄く笑った。 T大は僕の志望校じゃない。僕は、氷河が進むだろう大学を自分の志望校に据えておいたにすぎないんだ。少し動機が不純かもしれないと自分でも思うけど、氷河が思う通りの道を進むのをアシストするのが僕のしたいことだったし、それ以外の道なんて僕は望んでいなかったから、当然の選択とも思っていた。 氷河を氷河の父以上の成功者にさせること、氷河の計画通りの人生を氷河に歩ませること、そのために力を尽くすことは、ひどく楽しくやり甲斐のあることだと、僕は感じていた。 たった四、五カ月のガリ勉で、氷河が僕を追い抜いてトップになってくれた時には、僕はほっと安堵した。それが当然の結果とわかってはいたが、それでこそ氷河だと思い、やはり氷河には敵わないと思い、敵わないことが嬉しくもあった。 氷河なら、自分が思い描いている通りの人生を、挫折することなく、障害など物ともせずに確実に歩んでいけるだろう。それを見守るのが僕の仕事なんだと、何の躊躇いもなく信じてしまえた。そう信じられることが僕の幸福でもあったんだ。 この時がいつまでも続いてほしいと願っていた。 それが、氷河の言う"お袋以上の女"が現れるまでの幸福だとわかっていたから。 |