そんな僕の心に一石を投じたのは、しかし、一人の女性ではなく、氷河の父、高生加基臣氏だった。 季節は高三の冬――に入っていた。 冬休み――それも、大晦日の前日だったが、受験生にそんなことは関係がない。その日、僕は、小論文の書き方を氷河にレクチャーする予定で、その手の参考書を持ち、氷河の家に向かっていた。 風は頬を切るように冷たかったが、昼下がりの空は晴れていた。濃い青色の夏の空とは違う冬の水色の空には、乾いた絵筆に白い絵の具をつけて掠めて描いたような雲がところどころに漂っていた。 氷河の家は、僕の家から歩いて15分ほどのところにある。大通りを、僕等の通う高校とは逆の方向に10分も歩くと、大きなカーブに出くわすんだけど、そのカーブを囲むようにして氷河の家――というより、お屋敷と呼ぶ方が正鵠を射ているんだが――は建っている。もっとも、氷河の寝起きしている母屋は大通りの騒音や排気ガスを避けるためか、門からかなり奥まったところにあって、つまり、15分に足りない残りの5分は、門から母屋まで歩く分。 国と地方自治体が高生加家への土地家屋の賠償額と保障額を考慮して、真っ直ぐな道をつくるのを諦めたという曰く付きの邸宅だ。 なにしろ熱愛していた亡き妻との思い出の家の買収に、氷河の父がそう簡単に応じるはずもなく、しかも、役所にとっては都合の悪いことに氷河の父は金に不自由していなかった。 金を積んで動かせる人物でもない上に、自治体には住民税、固定資産税、事業税を、国には所得税と法人税を、一般サラリーマンの千倍は払っている大物なんだ。 もともと氷河の両親がその場所に家を建てた時、その通りはそこで終わっていたらしい。 いい加減な都市計画のせいで通りを延長せざるをえなくなってしまったからといって、住民を立ち退かせようというのは、氷河の父が実力者なだけに自治体の方も躊躇したらしい。多額の保障金を支払った上に、氷河の父の収める巨額の地方税を他の自治体に渡すのは損だという感情面での損得感情もあったのかもしれない。 「真っ直ぐな道をウチの庭につくってやって、半分になった庭と庭を歩道橋で行き来するようにしたらどうだ? って、親父に言ってやったんだけどな」 『国の整備計画通りの道をつくることになれば、早雪【さゆき】の好きだった楡の木を切ることになる』 と、氷河の父は真面目な顔をして答えたのだそうだ。ちなみに早雪というのは、氷河のお母さんの名前。 ともかく熱愛のほどが偲ばれる話だ。 僕は氷河から渡されているIDカードで高生加家の門を開けると、氷河のお母さんが好きだったという楡の木を右手に見ながら、正面玄関に向かった。 氷河の家は、イタリア・ルネサンス様式に似た明るく親しみやすい洋風の建物だ。多分に、氷河のお母さんの好みが反映されているんだろう。大きいことは大きいが、荘厳さとか堅苦しさは全く感じられない。 正面玄関に向かって左手に大型車が十台は置けるガレージがあり、右手には母屋とは渡り廊下で繋がった別館がある。この別館は小さな体育館みたいなもので、バスケットコートを二面とれるくらいの室内運動場。 僕は小さい頃から、氷河や他の友達とこの氷河の家の庭や室内運動場を遊び場にして大きくなった。もちろん、広い母屋も隠れんぼや障害物競走には絶好のロケーションで、さんざん有効利用させてもらった。 だから本当に勝手知ったる他人の家、この家で僕が知らないのは、氷河のお父さんのテリトリーだけだ。氷河の家の家政婦長さんに、氷河のお父さんの書斎や居間には絶対立ち入り禁止の厳命を受けていたから。 だが、そんな命令を出されると逆らいたくなるのが子供の性で、小三の頃一度だけ氷河と二人で、数ある禁断の部屋の中の一室を覗き見たことがある。 そこは書斎でも居間でもないようだった。 三十平方メートルほどの広さの部屋に、長椅子が一つと小さな木のテーブルが一つあるだけの殺風景な部屋。薄い緑色の壁には、絵画の一つも掛かっておらず、絨毯も敷かれていない。庭に面した側が一面のガラス張りになっていて、氷河のお母さんが好きだったという楡の木がよく見えた。 最初僕はその部屋を、氷河のお父さん専用のサンルームなのかと思った。小さなテーブルの上に小さな写真立てを見付けるまで、その部屋が何のための部屋なのかわからずにいた。 「なにする部屋なんだろーね、ここ」 「俺も初めて入ったんだ。わっかるわけねーだろ」 そう言い合いながら部屋の真ん中にあった長椅子に二人揃ってとすんと腰を降ろした時、僕たちにはわかったんだ。そこが氷河のお父さんの大切な部屋だってことが。 長椅子は庭が眺められる向きに置いてあった。手前にある小さなテーブルには小さな写真立てがひっそりと載っていた。写真立てには、赤ちゃんの氷河を抱いてデッキチェアーに腰掛けて微笑んでいる白いワンピースの若い女性。 その部屋の長椅子に座れば、氷河のお父さんは、お気に入りの楡の木の陰で幸せそうに微笑んでいる氷河のお母さんの姿を見ることができる。 そのことに気付いた僕と氷河は、どうすればいいのかわからず、しばらくもじもじしていた。そして、言葉を交わしたわけではないが、どちらからともなく誘い合うようにして禁断の部屋を出た。 「やっぱ入っちゃいけないよね。入っちゃだめなとこなんだから」 廊下に出てからほーっと長い溜め息をついてそう言った僕に、氷河は無言で頷き返した。 いつも元気で、みんなの先頭に立って悪戯の指揮をしている氷河が、泣きだす直前のような顔をして僕を見ていた。 「ひょ…氷河…?」 絶対に泣くつもりはないのだろうが、万一の時涙を僕に見られないようにするため、僕の肩に顔をうずめてきた氷河に戸惑いながら、僕は別の意味で零れそうになる涙をこらえていた。 僕の母には、その時既に恋人がいた。時々僕と母の住むアパートを訪れて、『新しいパパはほしくないかい?』と尋ねてくるその男の人は優しそうな目をしていたけれど、僕はいつも首を横に振って彼を追い返していた。 そんなふうに彼を拒絶する時に僕の感じる屈辱――そんなにも簡単に断ち切れてしまった関係から僕は生まれてきたのかと考える屈辱――を、僕は氷河に到底打ち明けられなかった。 中学に入る頃には僕も大人の振りをすることができるようになって、新しい父親を快く受け入れてみせたのだが――。 ともかく、そんなふうに、僕は氷河以上に氷河の家に愛着がある。自分の家では"いい子"のポーズを崩さずにいた分、氷河の家で、僕は僕でいたように思う。たくさんの思い出があるし、なによりこの家には、自分の片羽を失くし、それでもなおその片羽を求め続ける、僕にとっては憧れの"両親"がいるんだ。 けど、もちろん――というか、不思議なことに、というか――僕は、氷河のお父さんに直接会ったことも話をしたこともない。彼は本当に多忙な人で、深夜でないと帰宅しないし、国内外への出張も多かった。 |