だから、僕は、その日も、憧れの両親の片羽に出会えるとは思っていなかったんだ。

 その日、いつも通り正面玄関の脇にあるカードリーダーにIDカードを通そうとすると、ふいに中から氷河の怒声が響いてきた。

「1時5分前には車をまわしておけと言っておいただろう! 何を聞いていたんだ!」
 氷河の大声に、僕は――僕の方こそ憤った。今日の1時に僕が訪ねることを知っているくせに、小論文から逃げる気なのか、と。
 カードリーダーに急いでカードを通すと、僕は正面玄関のドアを開けた。両開きの重々しい木製のドアが完全に開くのを待ちきれず、玄関に立つ人影に向かって怒鳴りつける。
「氷河! 車の用意なんかさせて、どこ行く気なの! 今日は小論文やるって約束してたでしょ! ……え…!?」
 氷河の家の広い玄関で、僕は目を見張った。

 そこに氷河はいなかったんだ。代わりに、氷河と同じくらい長身の、三つ揃いを着た紳士が、電話の受話器を持って立っていた。
「あ…す…すみません! 失礼しました! ひ…氷河の声が聞こえたんで、僕、てっきり…」
 相手が何者なのかも確かめず、僕はひたすら平身低頭謝った。氷河以外の人の前でこんなそそっかしい真似をするなんて、二年に一度あるかないかだ。


「……瞬…」

「え?」
 僕の耳に聞こえてきたのは、ちょっと低めの、包み込むように温かい、やはり氷河の声だった。
 不審に思って、僕は伏せていた顔をあげた。
 だが、やはりそこに氷河はいない。先程の紳士が僕をじっと見おろしているだけだった。
 その面差しをまともに見て初めて、僕はそれが氷河の父、高生加基臣氏だと気付いた。

 新聞や雑誌ではちゃんとチェックしてて、氷河によく似たその面立ちだって見知ってたつもりだったけど、こんなに背の高い人だとは思ってなかったから――つまり、顔を正面から見ることができなかったんだ。今時、十八歳の息子に――それも、氷河は一九〇近くある――身長で負けていない父親なんてものがこの世に存在すること自体驚異だったし、おまけにその体型も、日本の平均的四十代男性のそれじゃない。どっかのパーティ会場でアルゼンチン・タンゴを披露することぐらい容易にできそうな見事なプロポーション、だった。
「瞬くん、だね」
 そして、信じられないことに、その人の形のいい薄めの唇からは氷河と同じ声が発せられた。

「あっ…あの、はいっ! 僕、弓崎瞬です。もしかして氷河の――氷河くんのお父さんですかっ」
「そんなにかしこまらなくていい。氷河ならちゃんと自分の部屋で先生が来るのを待っているよ。わざわざ君が出向いてきてくれることがわかっているのに、こそこそ逃げだすのは、放任主義の父親くらいのものだ」
「す…すみませんっ。失礼なこと言いました。氷河と…氷河くんとまるっきり同じ声だったから、僕、てっきり……」
「氷河がエスケープしようとしているのだと思ったわけか。氷河が今まで一度でも君との約束を反故にしたことがあったかい?」
「いえっ、ごめんなさい! 僕の勘違いですっ」

 氷河と同じ声が、諭すように僕の身体にまとわりつく。
 僕は緊張しまくっていた。
 息子の友人に微苦笑してみせる氷河のお父さんの迫力というか、威圧感に圧倒されて。

 氷河にも確かに、ある種傲慢なほどの自信や尊大さがある。氷河は、なにしろ、自分にできることができない他人というのが理解できない人間なんだ。そういう時の氷河を端から見れば、それは傲慢以外の何物でもないだろう。

 氷河のお父さんには、そんなところはなかった。自信も尊大さも柔らかく親しみやすい仕草と微笑の中に覆い隠して、それでもなお、対峙する相手に痛いほど伝わってくる自信と余裕。それは、僕みたいな小僧っこに対抗できるような次元のものじゃなかった。流石は高生加基臣、並の人じゃない――というのが、僕の正直な感想だった。

 この人に愛された氷河の母親というのはどういう人だったんだろう、と思う。この人が、美しく優しいだけの花を愛したりすることがあるだろうか。死してなおこの人を繋ぎとめておくだけの何かを、氷河のお母さんは備えていたに違いない。才能か、知性か、情熱か――。

 この人に愛されるほどの女性なら、氷河が自分をマザコンと言い張って恥じる様子のないことにも納得がいく。そして、氷河のそれは、やっぱりファザコン経由のマザコンなんだろうな、と僕は思った。






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