「なんだ、親父。また出掛けるのか? 年の瀬くらい、少しは家に落ちついて、息子の受験勉強の進み具合くらい心配してみせたらどうなんだよ」

 ふいに頭の上から、今度こそ本物の氷河の声が降ってきた。玄関前の吹き抜けになっているホールを囲む二階の廊下の手擦りの向こうに氷河の姿がある。基臣氏の陰にいた僕が見えなかったのか、ひとしきり悪態をついてから、氷河は僕に気付いたようだった。
「瞬、来てたのか! 時間厳守のおまえが時間になっても来ないんで、何かあったのかと思って、今、迎えに行こうとしてたとこだったんだぞ」
 廊下を階段の方にまわりながら、氷河は早足になった。
「ごめん。氷河のお父さんを氷河だと思って怒鳴りつけちゃった」
 階段の上まで来ていた氷河が、僕の言葉に目を剥く。
「瞬。おまえ、そりゃ、どっかの大臣にもできねー芸当だぞ。――あがって来いよ。小論文だろ、今日は」
「うん」
 氷河に促されて僕は靴を脱ぎ、玄関脇にあるスリッパを拝借した。氷河の家は完全な洋館だけど、部屋まで土足で入れるようにはなっていない。『裸足で氷河が家の中を駆けまわれるように』と、氷河のお母さんが提案したのだそうだ。

「本当にすみませんでした。お邪魔します」
「あ…ああ」
 氷河のお父さんに会釈をしかけて、僕は、氷河の登場からこっち、彼がずっと僕を見ていたらしいことに気付いた。
「?」
 訝りながらも玄関ホールを突っ切って、僕は二階へ続く階段をのぼっていった。

 上で待っていた氷河が、父親に視線を据えたままぼそっと呟く。
「親父の奴、おまえがお袋に似てるのに気付きやがった…! 俺でさえ気付くのに八年もかかったのに」
「え?」
 思いがけない氷河の言葉に、僕は微かに首をかしげたのである。

 氷河はいつも、僕が氷河のお母さんに似ていると言うけれど、氷河のお母さんの写真を見る限り、僕は彼女と僕との間の類似点をかけらも見いだすことができなかったんだ。氷河の思い込みを否定する気にはなれなくて、自分の意見を氷河に告げたことは一度もなかったけど。
 でも、氷河のお父さんまでがそんな思い込みに捉らわれるはずがない。

 僕が不思議そうな顔をすると、氷河は踵を返して自分の部屋に向かって歩きだした。慌てて僕も後を追う。
「――顔はさ、確かにお袋よりおまえの方が綺麗で、あんまり似てないんだけどさ、目が――目がそっくりなんだよ。なんつーか、いつも可愛いものとか好きなもの見てるような目なんだ」
 部屋のドアを開けながら、氷河が僕を見ずに言う。
「おまえと同じ目をしてたんだ。お袋は、おまえと同じ目で俺や親父を見てたんだ。それだけははっきり憶えてる」
「……」

 僕は、何と応じればいいのかがわからなくて黙っていた。
 それは誰もが持っている眼差しだ。
 母親が大事な息子を見詰める時、妻が愛する夫を見詰める時、僕が氷河を見詰める時――。
 同じ人を同じように愛したから、僕と氷河のお母さんはその眼差しまでが似てしまったんだろうか。
 でも…氷河のお母さんは、氷河を見詰める時、その思いを瞳の奥に秘する必要はなかったはずだ。


『生まれ変われるなら、何に生まれ変わりたい?』
『――氷河のお母さん…』


 幼い日の夕暮れの中での氷河とのやりとりを、僕はふいに思い出した。
 僕たちが通ったあの小学校の校庭も、今ではすっかりアスファルトで舗装されてしまったらしい――。






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