それから二ヵ月後、僕と氷河は予定通り志望大学に合格し、長い休暇に入った。学校に行くのは卒業式の練習がある時ぐらいで、本当は氷河はそれもさぼりたかったらしいが、なにしろ卒業式での答辞を任されてしまったんで、そうもいかなかったんだ。

「だーっっ!! こんなメンドーな役、俺に押しつけんじゃねーよ! 俺ァ、この時期は寄ってくる女躱すので手一杯だっつーのにっ!」
とワメく氷河をなだめながら、僕は氷河の書いた答辞の添削にいそしんでいた。寄ってくる女の子たちを避けるために、学校ではなく氷河の家で。

 氷河の書く文章は要点が明確で単刀直入で散文としては出来がいいし、僕の好みなんだけど、形式を無視する傾向がある。おまけに、教師やよそ様の父兄を尊敬していないから、敬語を全く使っていない。

 溜め息をつきながら赤ペンを走らせる僕を見て、氷河は妙に嬉しそうだった。
「俺さー、親父の跡を継ぐんでも、自分で何か始めるにしても、瞬さえいてくれりゃ全てうまくいくような気がするんだ。瞬は、俺の苦手分野が全部並以上だから、俺たち二人が組めばどんなことでも――きっと、世界征服だってできるぞ」
「独断専行する社長にあたふたするボンクラ重役をなだめるのが、僕の仕事?」
「瞬の調査能力・洞察力と、俺の決断力・実行力の結合だよ。瞬は俺のパートナーで部下じゃない」
「ほんとにそう思ってるなら、卒業式の答辞、完璧にこなしてよね」

 氷河に切り返しながら僕は、そんな未来を夢見ることが本当に可能なんだろうかと、胸を騒がせていた。
 まもなく始まる大学の四年間、そして、それ以後もずっと、僕は氷河と同じ道を歩んでいけるんだろうか。それは耐えきれないほどの痛みを伴った、信じられないほどの幸福なのに違いない。

「…ゅん! 瞬!」
「…あ、え、なに?」
 呼ばれて僕は我に返った。どうやら幸福な夢に悪酔いしていたらしい。
「なに? …じゃねーよ。どうせ今日から一週間ウチに泊まってくんだからさ、別にそれ、今日やらなくてもいいだろ? お茶飲まねーか?」
「ったく、氷河が飽きてどーするの。…ま、いっけどさ。ほんと毎年毎年ごめんね」

 三月上旬の一週間を氷河の家で過ごすのは、僕の毎年の恒例行事だった。私立中学の音楽教師をしている僕の母は、同じ学校の社会科教師と再婚した。音楽教師なんてもともと持ち授業が少ないから、修学旅行というと必ず引率に駆りだされる。母の学校は二年生の三月の一週間が修学旅行シーズンと決まっていて、僕が小学生の頃から母はこの時期は家を留守にすることが多かった。ここ五、六年は学校側の配慮か何か知らないが、僕の母と義父は二人して毎年修学旅行に出掛けている。
 小学校の頃からこの時期は氷河の家に泊まる習慣になっていたから、僕もその方が気が楽だったけど。
 もっとも、氷河の家に泊まるといっても、氷河と同じ部屋で寝るとか、夜中まで馬鹿話をしたりビデオを見てたりするわけじゃない。氷河の家の、バス・トイレ・デスクにパソコン付きのゲストルームを一室拝借するんだ。12時には僕は氷河の部屋を出てゲストルームに入る。食事は氷河と一緒にダイニングでとるけど、まあ、友人の家に泊まるというよりはホテルに滞在するという感じだ。それもクイーンズ・スイート。
 氷河の家族に会うこともなかったし、氷河の家の使用人たちも"お客様"として僕を遇してくれていた。
 小学校低学年の頃ならともかく、小学校を卒業しようという歳になれば、食料の調達くらい自分でできるし、一人きりでの留守番が不用心とかいうこともなかっただろうが、氷河が誘ってくれるんで、ついそれに甘えて今年まで続いてしまった。

 ただその日が例年と違っていたのは、夜半過ぎ、氷河が突然、
「瞬、わりぃ。高杉の奴がさ、車が通りそうにもない千葉の山奥でガス欠起こして立ち往生してるって電話かけてよこしたから、ちょっとガソリン届けに行ってくるわ」
と言って、同級生の救援に向かってしまったことだった。

 友達の家に泊まりに来たのに、その友達がいないでは、僕の客としての立場がない。
『僕も家に戻る』と僕は言ったんだけど、氷河に『俺に明日ひとりで寂しく朝メシ食えってのかよ』とかなんとか責められると、僕は強く逆らえなかった。氷河のお父さんが早く帰宅して図々しい客に眉をひそめないことを祈りつつ氷河を送りだすと、僕はゲストルームに駆け戻ったんだ。
 だが、そういう日に限って――氷河のお父さんは平生よりも早く帰宅してきてしまうのである。

 午後10時過ぎ、ダイヤモンド・ブラックのベンツが門から庭に入ってきたのをゲストルームの窓から見て、僕は慌てて私設秘書の島岡さんを捜しに部屋を飛びだした。
 ちょうどこの家の主人を迎えるために玄関に向かうところだった島岡さんを、廊下でつかまえる。
「島岡さん…! 氷河のお父さんが帰ってきたみたいですけど…」
「はい、今日はお戻りにならないご予定だったのですが」
 氷河のお母さんが亡くなったあと、高生加家の管理を任されている島岡さんは、氷河のお父さんより十歳ほど年上だそうだが、氷河のお父さんが若く見える分、はるかに老けて――もとい、お歳を召しているように見える。彼は落ち着いた様子で僕に頷いてみせた。

「あの…あの、氷河、出掛けちゃったんですけど、やっぱり氷河のお父さんにご挨拶しといた方がいいでしょうか。この家の主人の知らぬ間に他人があがりこんでるなんて、その……不快に思うんじゃ…」
「そんなお気遣いはさせないようにと、氷河様から言われておりますので、私の方からご報告はいたしておきますが……瞬様のご意向もお伝えしておきましょう。お疲れでなければ、お時間を割いていただけると思います」
「え…いえ、僕は…」

 僕は挨拶をしたいと思ったんじゃなくて、しなければならないのではないかと考えただけだった。多忙な人から貴重な休息時間を奪いたいわけじゃない。そう島岡さんに伝えようとして、口を開きかけたところに、
「旦那様も氷河様の話をお聞きになりたいでしょう。旦那様は氷河様のことは誰に聞かなくてもわかるといつもおっしゃっておられますが、一日に15分顔を合わせることがあるかないかの状態で氷河様の全てがおわかりになるはずもありませんし」
と、島岡さんに機先を制されてしまった。

 結局それから一時間後、僕は一階の客間で氷河のお父さんと歓談(そう島岡さんが言った)することになってしまったのである。

 僕を客間まで案内してくれた島岡さんは、きっちり制服に着替えてきた僕の姿をみて苦笑を洩らした。
「十年来の親友のお父上に会うのに、そこまで堅苦しくなさらなくてもよろしいでしょうに」
 島岡さんはそう言うけど、だらしない恰好であの厳しい目をした人の前に出て、氷河の友人として二十点…なんて採点されるのは、やっぱり回避したい。制服を持ってきておいて本当によかったと、僕は思っていた。
「あ…はい。でも、ほとんど初対面ですから、やっぱり失礼のないようにしたいんです。敬語を使わずにいられるような普通の"お父さん"でもないみたいだし…」
「まあ、そのお気持ちはわかりますが――旦那様、弓崎瞬様でございます」
 客間のドアを開け、僕を室内に案内した島岡さんが、無情にも僕ひとりをそこに残して客間のドアを閉じようとする。
「島岡。今夜はもう用はない。寝んでくれて結構だ」
「はい」
 氷河のお父さんの言葉に深くお辞儀をした島岡さんは、緊張しまくっている僕をその場に残し、ドアを静かに閉じてしまった。

「あっ…あの、こんばんは。お断りもいただかずにお邪魔して申し訳ありませんでしたっ」
 島岡さんに置いていかれた心細さを振り払うようにして、僕は氷河のお父さんの方に向き直り、そう言って頭をさげた。というか、言いながら頭をさげた。
 僕はとにかく緊張していたんだ。畏【かしこ】き辺りにおわしますお方に会う方が、よっぽどリラックスしていられたんじゃないかと思うくらいに。

「自分が招いた客を放っておいて外出する氷河の方が無礼なんだ。君が恐縮することはない。あれは――父親などより君の方をよっぽど近しい身内だと思っていて、だから、君には気遣いなど必要ないと思っているんだよ」
 緊張でかちんこちんになっていた僕の許に届けられた氷河のお父さんの声は、思いがけず優しいものだった。

 恐る恐る顔をあげた僕の前に立っていたのは、声と同じに優しい眼差しの持ち主で――やはり氷河に似ていた。
 氷河から粗削りな鋭さとか若さ故の傲慢さみたいなものを取って、ある程度の人生経験を積んだら、こんな感じになるんじゃないかと思う。彫りが深くて鼻筋の通った端正な顔だちを、氷河はこの人からもらったんだろう。
 してみると、氷河もあと二十年くらいしたら、こんな大迫力の無茶苦茶カッコいいおじさんになるんだろうか。この人が氷河だったら、僕もこんなに緊張せずに対峙できるんだろうに。

「掛けたまえ。ちゃんと話をするのは今夜が初めてだが、君のことは氷河から聞いてよく知っているつもりだよ。氷河が清和高校に入れたのも、今回の大学受験をクリアできたのも、すべて君の短期集中特訓のおかげだし、家庭的に恵まれていないあの子が、今日まで真っ直ぐに生きてこられたのも、君という親友がいてくれたからだ」
「ぼ…僕、そんな大したのじゃないです…」
 まるで大学入試の面接官にするようなお辞儀をしてから、僕は、勧められたソファのはじっこに腰をおろした。

 大きなガラスのスライドドアから庭を見渡せる客間は、中央より右寄りに立派な応接セットがあって、高い天井にある灯りと部屋の四隅からのフットライトが発する暖かい光で満ちていた。ワインレッドのカーテンは閉じられておらず、庭の常夜灯の光に照らされた芝生が見える。
 氷河のお父さんは、先日会った時よりずっと寛いだ雰囲気で――ネクタイを外し、Yシャツを着ているだけだったからだろう。
 制服姿の僕を見やると、
「失礼な恰好で申し訳ないな。氷河がすぐ礼を失してしまうのは、私に似たせいかもしれない」
 そう言って苦笑した。
「しかし、君のことは氷河から聞いてよく知っているから、氷河と同じように私も君と親しいのだと錯覚してしまっているんだ」

 一日15分の親子の会話のうち、いったいどれほどの時間を友人関係の話に割けば、『噂はよく聞いている』ことになるのだろう。見事な社交辞令に、僕は乾いた微笑を顔に貼りつけた。
 基臣氏がそれに気付いて、微かに目を細める。
「君が物を書く時だけ左利きだということとか、セロリは嫌いだがパセリは食べられることか、本当はかなりの泣き虫だとか、中学の頃、なかなか背が伸びないので牛乳ばかり飲んでいたこととか――まあ、そういった表面的なことしか聞いてはいないが、ね」
「…!」
 それだけで十分だ。
 僕は真っ赤になって唇を噛んだ。

 苦労せずに大きく育った人には、僕の気持ちなんてわからないんだ。無二の親友で、何でも一緒と信じていた氷河の顔が、気がついたら僕の二十センチも上にあったんだぞ。どうにかして追いつかなくちゃと、僕は僕なりに必死だったんだ。
 どーして氷河はそんなことを、いちいちお父さんに報告したりするんだよ、もうっ! 一日に15分しかないんだろ、親子の会話がっ。他にもっと有意義なことを話したらどーなんだっ!
 僕の憤りを察したらしく、基臣氏が微苦笑する。
「腹を立てないでくれないか。それくらい、君は氷河の生活の中心にいるんだよ」
「……」

 僕は――僕は、怒ったらいいのか喜ぶべきなのかがわからなくなって――切なくなった。
 僕だってそうだ。僕だってそうなんだ。
 氷河を中心にして、僕の世界はまわっている。
 氷河だけがいてくれればいい。氷河以外の誰も――母さんも義父さんも他の友達もいらない。氷河しか僕の気持ちをわかってくれない。母さんが再婚したいと言ってきた時、大人になった振りをして頷いてみせた僕の中で、一層鮮やかになった父さんの思い出を感じとってくれたのも氷河だけだった。

『おまえのお袋さん、生きてるんだ。永遠なんて、死んだ人にしか求めちゃいけない。求めるのは酷だよ。な、瞬』
 僕は、母が再婚するから少し離れた所に引っ越すことになったと事務的に報告しただけだったのに、氷河はまるで手に取るみたいに僕の気持ちを見通していた。
 そんな氷河に、いつまでも僕を見ていてほしいと望むのは、むしろ一個の人間として当然のことじゃないか。

 小さな頃からいつも一緒で、氷河が喧嘩した時は、僕がその腕に絆創膏を貼り、僕がかけっこして転んだ時、その膝小僧を消毒してくれたのは氷河だった。
 他の誰も、氷河以上に僕をわかってくれるはずはないし、他の誰かを、僕が氷河以上に好きになることもない。恋だとか友情だとか、そんな入れ物の名前はどうでもいい。ただ、僕が生きていくために氷河が必要なだけなんだ。
 そんなふうに、僕の世界の中心に氷河はいる。けど、氷河の世界の中心に、僕はそんなふうにいるわけじゃない。いつか"お袋以上の女"を見つけて、氷河はその人の氷河になるんだから。

 急に喉の奥が熱くなって、僕は顔を伏せた。
 まずい。ここで涙なんか零したら、氷河のお父さんが奇異に思うだろう。どうしてこう、僕の涙腺は弱いんだ!
 何か――何か別の話をしなきゃ。別のこと考えなきゃ…!

「あ…あのっ、氷河の…氷河のお母さんって……僕、そんなに氷河のお母さんに似てますか? 氷河はいつもそう言うんですけど」
 そう言葉にしてしまってから、僕はすぐに後悔した。亡くなった人のことを、まだその人を思っている人の前で他人が話題にするなんて、無神経すぎる。けど、いったん言葉にしてしまったものを回収することはできなかった。

 氷河のお父さんの瞳を、一瞬哀しい色が走る。
 僕は、後悔に身体を縮こまらせた。

 しばらく間をおいてから、基臣氏はゆっくりと口を開いた。
「――似てるよ。氷河は小さい頃に母を亡くしたから憶えてはいるまいが、仕草も喋り方も――なにより彼女は人を乗せるのがうまくてね。彼女に力づけられると、私は何でもできるような気になった。私は、こう見えても若い頃は世の中を拗ねていた男で…彼女に出会わなかったら、どういう人間になっていたかわからない。私にも生きて存在する価値があるんだと彼女に教えてもらえたから、今の私がいるんだ。彼女は本当に素晴らしい女性だった」

 基臣氏は、僕の無神経な発言に気を悪くした様子は見せなかった。僕みたいな子供に、彼は真顔でそう答えてくれた。
 僕は――僕は頷いてみせることもできず、ただ、いつのまにか涙を零していた。

 同じ言葉を、僕は僕の母に言ってもらいたかった。同じ思いを母に抱いていてほしかった。僕が大好きだった父を、母にも永遠に思い続けていてほしかったんだ。
 この人の息子である氷河も、いつか素晴らしい女性に出会い、同じように情熱的に、そして永遠に、その女性を愛するようになるんだろうか。僕など入り込めないほど強い絆を、他の女性との間に育むんだろうか。
 哀しくて切なくて、僕の涙は止めようがなかった。

 その時ふいに――氷河のお父さんが僕に尋ねてきた。
「私が――君を抱きたいと言ったらどうする?」
と。

「え?」
 あまりに思いがけない基臣氏の言葉に、僕は一瞬息が止まってしまった。
 彼は急に、いったい何を言いだしたんだろう。驚きのあまり、僕は瞳を見開いた。
 2、3分――いや、5分以上、僕は瞳を見開いたまま、彼を見詰めていた。

「君は――どうする?」
 再度、基臣氏が尋ねてくる。氷河と同じ声で、氷河に似た面差しの、だが氷河よりもっと深い色の瞳をした人が――。

「ぼ…僕が氷河のお母さんに似てるから……ですか?」
 それだけ尋ね返すのがやっとだった。その時既に僕は、氷河の声に全身を絡めとられていたのかもしれない。
 彼は何も答えなかった。

 黙って――真剣な眼差しで僕を見詰めていた。氷河の真っ直ぐな眼差しより、もっとずっと複雑な色の眼差しで。
 社会的に認められ、僕なんかとは比べものにならないくらいの人生経験を積んできた大人なのであろうこの人が、ただ愛した人に似ているというだけのことで、僕みたいな子供に救いを求めている。
 僕は彼の瞳を見ているのに耐えられなくなって、目を閉じた。この人は、身にまとっている空気まで氷河に似ている――。
 そう感じた瞬間、僕は自分自身でも信じられないような言葉を口にしていた。

「…いいですよ。氷河のお母さんの代わりなら――」

 今度は基臣氏が驚きに目を見張る。

「僕も――きっと他の人を思い浮かべると思うから」

 次の瞬間、僕は基臣氏の――氷河のお父さんの力強い腕に抱きしめられていた。






[next]