そんな時――僕は基臣氏と再会した。

 バイクで房総の方にツーリングに出ていた氷河が事故を起こして担ぎこまれた病院の廊下で。
 大学に入ってからはほとんど氷河の家を訪ねることはなくなっていたから、彼と会うのはちょうど一年半振り、だった。

 会社の方から駆けつけたのだろう。あの夜とは違って、かっちりと三つ揃いのスーツを身に着けた基臣氏は、氷河の病室の前の廊下で医師からの報告を受けていた。
 僕に気付くと、なんだか不思議な――皮肉げで哀しそうな、それから驚きも混じっていたかもしれない――微かな笑みを目許に刻む。
「スピードを出し過ぎていたところで、トラックに接触したんだそうだ。打撲だけで済んだよ。バイクはおしゃかになったようだが、氷河自身は二、三日、病院でおとなしくしていればいいらしい」
「……」
「一年半もの間、君と会わずにいることになるとは思っていなかった。…ずいぶん強い子だな」
「……」

 彼の、氷河と同じ声を聞いただけで、僕は足が竦んでしまっていた。
「――それでもまだ、氷河を気にかけてくれているのか? 最近の氷河を見ていたら、君に見限られても仕様がないと思っていたんだが」
「ど…どうして…」
 自分の息子が怪我をして病院に担ぎこまれたというのに、基臣氏の口調は冷静そのものだった。まるで氷河を見放してしまったかのように。
「どうして、そんな突き放したような言い方をするんです! 氷河が怪我したのに! 氷河がこんなに変わってしまったのに! あなた、心配じゃないんですかっ!」
 僕に基臣氏を怒鳴りつけることができるなんて、信じられないことだ。基臣氏の存在感、威圧感は、以前と少しも変わっていないのに。僕はもしかしたら、この人と寝たことで、この人と同じ程度の高みにのぼることができたのだと錯覚していたのかもしれない。

 当然のことだが、基臣氏は、僕の怒声に動じた様子は全く見せなかった。
「大きな声を出すのはやめなさい。ここは病院だ」
 そう、基臣氏は静かな声で僕を諭した。
 僕はまるで、学校の先生に注意を受けた小学生のようなものだった。慌てて周囲を見まわす。
 本来静寂に支配されているべき病院の廊下にいた看護婦や入院患者たちが、僕に非難の視線を向けている。僕は、怒りを喉の奥に押しやった。

「氷河は、自分の思い通りにならないことに生まれて初めてぶつかって、やけを起こしているんだ。私が何を言っても、聞く耳を持ってはいないだろう」
 基臣氏はそう言って僕の肩に手をまわし、僕に外に出るように促した。
 この人は、氷河がこんなにも変わってしまった訳を知っているのか? 氷河が、親友の僕にさえ打ち明けてくれなかったことを――?

「あ…あなた、知ってるんですか? 氷河がなぜ――」
「私は、氷河のことなら何でも知っているよ」
 その自信に満ちた口振りに引かれるように、僕は彼の後に従った。

 誰よりも――基臣氏よりも長い時間、僕は氷河の側にいたはずなのに、僕の知らないことを彼は知っている――んだ。接する時間の長短によらず、やはり他人は実の父親には敵わないものなんだろうか。
 病院の屋外駐車場に駐車してあるSクラスのベンツの前に来ると、彼は後部座席のドアを開け、
「乗りなさい。家まで送っていこう」
と僕に言った。

「僕、氷河のお見舞いに来たんです。氷河に会わないまま帰るなんてできません」
 僕はそう言って乗車を拒んだが、本当は、この人と閉じられた空間にいて氷河と同じ声で囁きかけられ、また錯覚を起こしてしまうかもしれない自分自身を恐れていただけだったのかもしれない。
「今、君が氷河に会っても、氷河は癇癪を起こすだけだ。あれは、君に、自分のみっともないところは見せたくないだろうからね」
「そんなことまで、あなたは見通せるんですか! そんなの、会ってみなきゃわからないでしょう!」
 ここはもう病院の廊下じゃない。僕は声を張りあげた。氷河をいちばんよく知っている人間は僕だという自負を否定されて、僕はやけになっていたのかもしれない。

「――そうだ、な…」
 抑揚のない声で静かに頷いてみせる基臣氏の態度に、僕の憤りはすぐに萎えてしまったが。
 僕がわめいてみせたところで、この人には、子供が玩具を買ってくれと駄々をこねている程度のものでしかないのかもしれない。

「氷河が変わってしまった訳――教えてください」
 蚊の鳴くような声で、僕は基臣氏に尋ねた。

 少しの間をおいて、彼が口を開く。
「氷河には好きな人がいるんだよ。だが、その人は他の男のものだった。――それだけのことだ」

「――」
 一瞬、時間が止まったのかと思った。全ての音が遠のき、周りの風景が、僕の目の前にいる人も含めて、僕の視界から消え失せた。
 地面も消えた。ぐらりと身体が揺れる。次の瞬間、僕は基臣氏に抱きとめられていた。
「瞬…!」
 基臣氏が、僕の名を呼んでる。でも、僕は声が出せない。

 氷河が安西さんを僕に紹介してきた時だって、僕はこんなに衝撃を受けなかった。――ああ、きっと僕はあの時、安西さんは氷河の求めてる女性じゃないと感じていたんだ。だから平気な振りをしていられたんだ。氷河が他の女の子たちと遊び歩き、毎日のように朝帰りしていることに気付いた時も、僕は嫉妬はしたけど、打ちのめされはしなかった。
 彼女たちは違う。氷河はまだ、"その人"に出会っていない――そう思っていたから。
 でも、氷河はもうその人に出会ってたんだ。僕の知らないところで、僕の知らない人に出会って、恋をして、そして――?

「嘘…だ。そんなの嘘だ。だって、その人が誰か他の人の恋人だったって、氷河に奪いとれないはずない。氷河が、そんなに簡単にその人を諦めてしまうはずがない…!」
「……」
 やっと見付けた僕の反駁の言葉に、僕を支えてくれていた基臣氏は、微かに辛そうに顔を歪めた。
「そう。氷河になら奪いとれただろう。だが、氷河はそうしなかったんだ」
「…!」
 そんなこと、僕には信じられなかった。

 僕は基臣氏の腕を振り払って、自分の足で立ち上がると、彼をその場に残し、ひとり病院にとって返した。
「廊下を走らないでください!」
 看護婦さんの注意も無視して、氷河の病室に飛び込む。
 僕の姿に気付くと、ベッドの上の氷河は、基臣氏の言った通り、癇癪を起こして僕に水差しを投げつけてきた。



『なにしに来たんだっ! とっとと帰れっ!!』
 氷河にそんな乱暴な言葉を投げつけられたのは、それが初めてだった。
 氷河の勢いに押されるように廊下に出て、僕はそれから二時間もそこに立ちつくしていただろうか。病室に入る勇気もなければ、氷河をそのままにして帰る勇気もない。
 だが、やがて僕は、看護婦さんに『面会時間は過ぎた』と言われ、病院の外に追いやられた。

 病院の玄関では、基臣氏が僕を待っていた。
 この人は本当に何もかもお見通しなのかもしれない――そう思った。






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