僕が二十歳になったばかりの早春。短大の卒業式当日、僕は父の居間で見合いの話があることを知らされたんだ。 折橋の家は純和風の建物で、父の居間も十二畳ほどの和室だった。居間の中央のどっしりした和卓に、床の間を背にして父が、その横には母が座っている。 帰宅後両親に呼ばれた僕が、紅色の袴を身に着けたまま父の居間に入った時、和卓の上には、一目でそれとわかる写真帳と釣り書きが載っていた。 最初、僕は、その写真帳を見て、胸を弾ませた。その台紙に貼られた写真は、基臣さんのものだと思っていたから。 娘の反応をそれとなく窺っていたのだろう母が、さして不快そうな様子を示さない僕を見て、ほっと肩の力を抜くのがわかった。 「早雪さん、中をご覧なさい。なかなかハンサムな方ですよ」 「――」 母は嬉しそうな顔をしたが、その言葉を聞いた途端、僕は嫌な予感に襲われたんだ。 常識的な美的感覚を持った人間が、あの基臣さんを見て、『なかなかハンサム』なんて言うだろうか。『ものすごいハンサム』とか『とてつもない美男子』とか言うのが普通なんじゃないだろうか。 「あの…その方のお名前は――」 僕が尋ねると、着物の袂を抑え、写真帳の表紙を開きながら母は答えた。 「沢渡博さんとおっしゃるの。今年二九歳におなりで、沢渡運輸の会長のお孫さんで、社長のご長男で、ご自身も常務取締役を務めていらっしゃるわ」 は…。ものすごい肩書だ。『自分は父祖のおかげで今の役職に就いています』と言ってるようなものじゃないか。 両親は本気で、僕をそんな男のところにやろうとしているんだろうか。半ばあきれながら、僕は、ろくに中の写真も見ずにその表紙を閉じた。 「お断りしてください」 きっぱりと言い切った僕に、母は――父までもが、あっけにとられた顔になった。両親に口答えなどしたことのない従順な娘の初めての反抗にあったのである。その驚きも当然のことだったろう。 だが、こればかりは譲歩できない。 僕が今ここに生きて存在しているのは、ただただ基臣さんに出会うためなんだ。 「どうして? いいお話でしょ。他に好きな方がいるわけでもないんでしょ」 「……」 僕は、どう答えたものか迷った。 好きな人はいる。でも、僕はまだ、その人に出会ってもいない。今どこにいるのかも知らないんだ。こんなことなら、もっと基臣さんの生い立ちを聞いておけばよかったと、僕は今更ながらに後悔した。 僕は勝手に誤解していたんだ。基臣さんほどの人が、ごくごく普通の庶民の家に生まれたはずはない。それ相応の家格の家で、高い教育を受け、その中であの自信と判断力は育まれたのだろう、と。 中学の時、図書館で調べた名士録には、しかし、高生加の名を冠した人物は一人も載っていなかった。そういえば、僕が瞬として彼の側にいた間、彼の親戚などというものが高生加家を訪ねてきたことはなかったし、氷河の祖父母の話も聞いたことはなかった。 『どこの誰かはわかりませんが、私には心に決めた人がいます』――では、両親も納得しないだろう。切羽詰まって、僕が捏造した答えは、 「お父様たちはご存じなかったでしょうけど、私、ひどい面食いなんです。なかなかハンサム程度では、私、夫として迎える気にはなれません」 だった。 これには母より父の方が怒りを覚えたらしく、腕組みをほどくと、どんと音をたててその手を和卓に叩きつけた。 「何を軽薄なことを言っている! どうせ断るのなら、もう少しまともな理由で断ったらどうだ!」 窮地に追いやられて、僕はマズいことを言ってしまったらしい。 弓崎瞬が生きていた頃には、女の子が自分は面食いだと宣言することなど珍しくもなんともないことだったけど、今はまだ昭和中期のまっただなか。男女雇用均等法なんてずっと先のこと、女性はしとやかで清純で控えめなのがいちばん、親に従い、夫に従い、子供に従って生きていくのが美徳とされている時代だ。良家の子女ならなおさらで、『私、面食いです』なんて、あっけらかんと公言した日には、どこのはすっぱ娘と蔑まれても仕方がない。 その場は、僕が軽率を謝罪して事なきをえたが、両親は娘の先行きに不安を覚えたらしく――つまり、僕は騙し討ちにあったんだ。 |