短大卒業後、僕の職業は"家事見習い・花嫁修行中"という、とんでもないものだった。そんな職業(?)を続けていては、もしかしなくても基臣さんに会うことは叶わないかもしれない――と不安を覚え始めていた頃、僕は、母に、父の会社の重役夫人たちの親睦会のお供を仰せつかった。

 帝国ホテルの(その頃の帝国ホテルは国内最高ランクのホテルだった)小さなホールを借りてのささやかな昼食会という触れ込みだったが、母が僕にやたらと和服を着るよう勧める時に、僕はその陰謀に気付くべきだったんだ。
 結局、親に従順な早雪が母の言う通りに桜色の振り袖を着て出向いた帝国ホテルの小ホールには、きっちり見合いの席が用意されていたのである。
"なかなかハンサム"な沢渡家の御曹司と、彼の母親らしき中年女性と、それから、多分月下氷人を気取ったどこかの奥様が、テーブルについて僕を待っていた。

 ホールに入った途端、母の陰謀に気付いた僕は、彼らにこれ以上ないくらい丁寧なお辞儀をして、ぱっと踵を返した。
 まったく、冗談じゃない。
 基臣さん以外の人と見合いだなんて、基臣さんに会った時、彼に顔向けができないじゃないか。
 母が僕の名を呼んで追いかけてきたが、僕は聞こえない振りをした。

 そして、フロント脇のラウンジを横切り、タクシーを呼ぶためにドアボーイに声をかけようとした時――僕は、見付けた。
 フロントのカウンターの前に立つ"ものすごいハンサム"――を。

 二四歳の基臣さんは、カウンター係に何やら尋ねているようだった。その頃流行りの型のスーツを完璧に着こなしていた。僕の知ってる基臣さんより少し髪が長くて、雰囲気が学生時代の氷河にそっくりだった。まっすぐな鼻梁と、彫りの深い顔だち。カウンター係の横にいる受付の女の子が、ぽかんと口をあけて見とれている。
 僕は――僕は多分、その受付の女の子と同じように、しばらくの間、言葉を失ってその場に突っ立っていたのだろう。

「早雪さん! 沢渡様がお気を悪くなさるじゃありませんか。お顔を見るなり、お席にもつかずに失礼するなんて!」
 母の声にはっと我に返った僕は、やはり母の声で振り向いたのだろう基臣さんと目が合った。

 その時、僕が思ったこと――それは奇妙な、ほんとに奇妙なことだった。今の僕は――折橋早雪は――なぜ基臣さんを驚かすほどの容姿を持っていないのだろう、と、その時、僕は思ったんだ。
 折橋早雪は、確かに、それなりに上品で可愛らしい顔だちをした女性だった。だが、弓崎瞬の清艶な面立ちに比べると、やはり並の美人でしかなかったんだ。
 自分のことをそんなふうに言うのもなんだけど、所詮身体は心の入れ物でしかないと思うから、つい客観的になってしまうのかもしれない。弓崎瞬でいる時、少なくとも僕は、氷河や基臣さんの側にいて自分の容姿に引け目を感じたことはなかった。
 が、今の僕は、基臣さんの目を奪うほど優れた容姿を持っているわけじゃない。本当にこんな僕を、基臣さんは愛するようになってくれるのだろうかという不安に、僕は襲われた。

 でも、その時、基臣さんは僕に目をとめてくれた。そして僕たちは、ずいぶん長いこと無言で互いを見詰め続けていたように思う。

 その沈黙を最初に破ったのは、僕の――折橋早雪の――母親だった。
「まあ、こんな人が……」
 その先の言葉を、彼女は喉の奥に飲みこんでしまったけど、つまりは、『こんな"ものすごいハンサム"がいるなんて』という意味のことを言いかけたんだろう。そして、娘の面食い宣言を思い出し、不吉な予感を覚えたに違いない。

 途切れた母の言葉を継いだのは、驚いたことに、いつのまにかその場に来ていた沢渡博氏、だった。
「基臣。なぜこんなところにいる」
「そちらこそ。私は一昨日からホテル住まいなんだが」
 なんだか、二人の会話には刺があった。
 沢渡氏が基臣さんの知り合いだということには僕も驚いたが、それ以上に、僕は、二十年振りに聞く氷河の(基臣さんの)声に身体が震える思いがした。
 懐かしくて懐かしくて、その懐かしさに胸が締めつけられた。


 見付けた。
 僕は基臣さんとついに出会った。

 事ここに至っては、もう、十人並の容貌なんて気にしていられない。どうにかして基臣さんに気に入られ、その愛を勝ち得なければ、氷河はこの世に生まれてこないんだ。
 僕は意を決して、基臣さんの側に駆け寄った。

「わ…私! 私、折橋早雪と申します。私、学生の頃、街で基臣さんを見かけてから、もうずっと長いこと、基臣さんに憧れておりましたの。どうか――どうか、お見知りおきくださいっ!!」
 一気にまくしたてて、ぴょこりとお辞儀をした僕が顔をあげた時、そこには基臣さんの複雑怪奇な表情があった。
 僕は何かおかしなことを言っただろうか。
 唐突だったことは認めるが、そんなに突飛なことを言ったつもりもない。基臣さんだったら、どうせ似たようなことを言って近付いてくる女の子には慣れているに違いないし――。

 あたふたと慌てた母が、沢渡親子にぺこぺこ頭を下げながら、僕の着物の袖を引っ張る。
 だが、僕は動かなかった。
 基臣さんの射るような眼差しに少し気後れはしたけど、なんとか視線を逸らさずに踏みこたえた。
 なにしろ、こっちは命懸けなんだから。親の体面なんて知ったことじゃない。

 僕を見詰めていた基臣さんの視線が、ふっと和らぐ。彼は口許に微かな笑みを浮かべ、僕に話しかけてきた。
「では、お嬢さんもドイツに留学していらしたわけですね。私は、つい一昨日、二年振りに日本の土を踏んだばかりなんですが、どこで私を見かけたんでしょう」
「…!」
 僕は内心で舌打ちをした。これじゃ、基臣さんに、どっかおかしい女の子だと思われかねない。早雪の母も、気の進まない見合いをぶち壊すために、その場逃れのでまかせを言っているだけなのだと考えるだろう。
 僕はやけになりかけていた。
「ベ…ベルリンです。ティアガルテンであなたをお見かけしました」
 基臣さんは笑いを噛み殺そうと努めていた。
「私はボン大学に通っていたのですが」
「ええ、ボンでもお見かけしました。ミュンスター寺院にいらっしゃいましたね」

 ずいぶん鼻っぱしらの強い女の子だと思ったに違いないが、基臣さんは苦笑しながら、僕に話を合わせてくれた。
「そういえば、そんなこともあったかもしれない。多分、今日は振り袖を召していらっしゃるので見違えたんだろう。パーティーでもあったんですか」

 基臣さんの問いかけに、僕は、母や沢渡氏を無視して、はっきりと頷いた。見合いになんて来た覚えは、僕には全くなかった。






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