ドイツからの帰国後、俺は東京でホテル住まいをしていた。留学前まで母と暮らしていた家は処分されていたし、かといって沢渡の家に入ることも許される状況ではなかったからだ。 外出からホテルに戻り、フロントでルームキーを受け取ろうとしていた俺の前に、突然お袋が――折橋早雪が――現れた。 季節は春。お袋は桜色の振り袖を着ていた。 「早雪さん! 沢渡様がお気を悪くなさるじゃありませんか。お顔を見るなり、お席にもつかずに失礼するなんて!」 ホテルのロビーで、母親らしい女性の叱咤を聞き流し、お袋は俺を見詰めていた。そして、俺も、彼女から目を離すことができずにいた。 俺はついに運命と出会ってしまったんだろうか。鮮やかな着物を身にまとい、物おじせず真っ直ぐに俺を見詰めるこの一人の女は、高生加基臣と愛し合い、高生加氷河をこの世に送り出し、そして、俺を瞬の許に運んでくれる運命の女性なんだろうか。 俺は軽い目眩いを感じていた。突然まわりだした運命の歯車の前で、為す術もなく阿呆のように突っ立っていた。 と、その時。 「基臣。なぜこんなところにいる」 彼女の背後から現れ、俺に冷やかな声をかけてきたのは、沢渡本家のぼんくら御曹司だった。その横には、底意地の悪い沢渡の正妻まで控えている。この女に直接会うのは、十二、三年振りだ。 「そちらこそ」 中年太りの身体を高価そうな着物に包んだ沢渡の正妻とぼけなす御曹司の様子から、どうやらこの二人が見合いに繰り出してきたところらしいことを察し、俺は嫌な予感に襲われた。 俺はもうその頃には、俺の知っている高生加基臣のような成功者としての人生を諦めてしまっていた。だから、たとえお袋に出会っても、躍起になって彼女を手に入れようなんてことは考えないつもりでいた。 だが。だからといって、お袋を沢渡博なんてろくでもない奴に任せられるはずがない。俺は、俺の人生は諦めていたが、お袋には幸せになってほしかった。 しかし、だからといって、この見合いをぶち壊すことができるのか――と、俺が考え始めた時、 「わ…私! 私、折橋早雪と申します。私、学生の頃、街で基臣さんを見かけてから、もうずっと長いこと、基臣さんに憧れておりましたの。どうか――どうかお見知りおきくださいっ!!」 突然俺の前に駆け寄ってきたお袋がそう言って、俺にぺこりと頭をさげてきたんだ。 俺はついこの間までドイツにいたし、お袋はどう見ても二十歳そこそこで、お袋の言うような状況は、到底ありえないことだった。だが、俺は、その場はお袋に話を合わせることにした。それでお袋と沢渡の縁談を無いものにできるなら、愚かな夫を持つ不幸からお袋を救うことにもなる。 お袋の瞳は、まるで自分の運命をたった今見付けたと言わんばかりに、明るく輝いていた。 |