義兄がホテル住まいの俺を訪ねてきたのは、その週末のことだった。お袋との見合い話が頓挫しかけているのに苛立って、俺に厭味を言いに来たらしい。 その時に俺は初めて、お袋があの折橋建設の社長令嬢だということを知ったんだが、義兄は俺に、お袋が金持ちの娘だから色目を使ったんだろうとか、正妻の息子の幸運を妬んで見合いをぶち壊しに来たんだろうとか、下衆の勘繰りとしか言いようのないことを大声でわめきたてた。ほとんどのテーブルが客で埋まったホテルのラウンジで、だ。 多分、その場にいた客たち全員の目と耳が、俺とぼんくら御曹司に注がれていただろう。 沢渡博の罵倒に、俺は何も言い返さなかった。何を言ったところで言い訳ととられるだけだろうし、俺が反論すればかえってこいつは逆上するだろうと思った。嫡出子は嫡出子というだけで庶子より偉いと信じ込んでいる男に何を言ったところで、こいつは聞く耳も持っていないだろう。そして、俺は、庶子の私生児のと見下されることには慣れていた。 だから――だから、驚いたんだ。 突然その場にお袋が現れて、沢渡博の頬を派手な音をたてて平手打ちした時は。 「何をする!」 いきり立った沢渡博に臆した様子も見せず、お袋は逆にぼんくら御曹司に食ってかかった。 「あなたは、ぶたれて当然のことを基臣さんに言ったんです! あなたは自分を何様だと思ってるんですか! たまたま父親が沢渡運輸の社長で、たまたま母親が正妻だったからって、自分も偉いんだと勘違いしている、思いやりも優しさもないただの大馬鹿者じゃないか! 基臣さんは――基臣さんは、あなたなんかに侮辱できるような人じゃないんだ! あなたなんかよりずっと強くて、才能があって、優しい人なんだ! 今度あなたが基臣さんを侮辱したら――」 お袋は、そこで言葉を途切らせた。俺が横でびっくりしているのに気付いたからのようだった。 実際、俺はびっくりしてたんだ。 白いワンピースの、一見楚々としたお嬢様の激昂と、彼女が俺を庇ってくれたことに。俺が沢渡家の庶子だということは知っているらしいのに、だ。 俺が阿呆面をさらしていたからだろう。お袋は今度は俺を叱咤し始めた。 「基臣さんだっていけないんです! 基臣さんが、こんな思いやりのない馬鹿、軽蔑しきっていて口をききたくない気持ちもわかりますけど、馬鹿には馬鹿って言ってあげないと、いつまでも彼は馬鹿のままでいるんです。この人、あなたに軽蔑されていることにも気付いてないんですよ!」 「……」 桜色の綺麗な唇から、『馬鹿』が連発される。俺が抱いていたお袋のイメージにはかけらもなかった勇ましさ、だった。 「ふん。この泥棒猫に何を吹き込まれたかは知らないが、あんたが折橋建設の社長令嬢だからこそ、基臣もあんたに色目を使っているんだよ!」 「馬鹿はやっぱり馬鹿なんだね。他人を自分と同じレベルにまで引きずり落として物事を考えるのはやめた方がいいですよ。沢渡運輸の御曹司さん」 いっそ快哉を叫びたいくらいのお袋の言葉に、俺はほとんど感動していた。 ぐうの音も出なくなったのか、沢渡博が大股でラウンジから逃げだしていく。 途端に、お袋は、その瞳からぽろぽろ涙を零し始めた。 「折橋…早雪さん…?」 先程までの勇ましさはどこへやら、お袋の肩は小刻みに震えていた。 「ご…ごめんなさい。ぼ…私がもっと綺麗で、目の醒めるような美人だったら、基臣さん、あんなこと言われずに済んだのに…。お…親の地位しか人に誇れるもののない娘が偉そうなこと言いました。すみません」 そう言ってぴょこんと頭をさげたお袋の目から零れた涙の雫が、きらめいて床に落ちた。 「ずいぶん勇ましい人だと感心していたのに、涙もろいんですね」 本当は、俺のイメージ通り、優しくておとなしい女性なんだろうと思う。俺のために――俺の名誉を守るために、お袋は必死で沢渡博を怒鳴りつけたのだろう。自分の息子でもない、赤の他人のために。 涙の止まらないお袋を席につかせ、俺は尋ねた。 「どうして私なんかを庇う気になったんです。私が沢渡家でどういう立場の人間なのかは、どなたかからお聞きになったんでしょう?」 我ながら卑屈な言い方だとは思ったが、他に言いようがない。日本では、所詮俺は沢渡家の庶子という身分しか持っていないんだ。 お袋は一瞬、きょとんとなった。それから、俺を見上げたお袋の顔は、やがて蒼白になっていった。 「す…すみませんっ。考えなしなことを言いました。わ…私、基臣さんの出自なんて、自分にとってはどうでもいいことだから、基臣さんも気にしてないんだって勝手に思いこんでて、だから――」 お袋はまた泣きそうな顔になった。可愛らしい顔をくしゃくしゃにして、そんなところを見られるのが嫌だったのか、そのまま椅子から立ち上がる。 弾みで倒れた椅子を元に戻しながら、『すみません』と『ごめんなさい』を幾度も繰り返し、何度も俺にぺこぺこ頭を下げながら、お袋はラウンジを飛び出ていってしまった。 あっけにとられている俺と、その他大勢の客を、日曜の午後の日射しに満ちたラウンジに残して。 |