それから丸二ヵ月、俺は瞬に会うことはなかった。
 中学の教員をしている瞬の両親が修学旅行の引率でしばらく家を留守にするから、例年通り瞬をゲストルームに泊めると氷河に言われた時も、だから、俺は大きな不安もなく許可を与えた。
 瞬は堅い子だ。二ヵ月前、ほんの2、3分言葉を交わしたきりの男と――しかも、親友の父親と――どんな事情があれ、軽々しく肉体関係をもつような子じゃない。

 その日、北九州支店の視察に出るために乗るつもりだった飛行機が悪天候のために飛べなくなり、いつもより早い帰宅を余儀なくされた時も、氷河が千葉の山奥でガス欠のために立ち往生した友達に救援を頼まれて、瞬ひとりを残し外出しているという報告を受けたも、律儀な瞬が俺に逗留の許可と礼をしたいと言っていると島岡に言われた時も――何もかもがあの夜と同じように動いているというのに――俺は、胸騒ぎも覚えずにいた。
 それなのに――。

「あっ…あの、こんばんは。お断りもいただかずにお邪魔して申し訳ありませんでしたっ」
 緊張した様子で客間に入ってきた瞬を見た途端、俺はまた、俺が高生加氷河でいた時の十八歳のときめきを鮮明に思いだしてしまったんだ。
 些細なことですぐほんのり上気してしまう頬、いつも涙をたたえているように潤んだ瞳と、男のものとは思えないほど細くて綺麗な指、優しい声、柔らかい髪――。

「自分が招いた客を放っておいて外出する氷河の方が無礼なんだ。君が恐縮することはない。あれは――父親などより君の方をよっぽど近しい身内だと思っていて、だから、君には気遣いなど必要ないと思っているんだよ」
 憧れ求め続けたものを目の前にして騒ぐ心を抑えながら、氷河の父親の顔を保つのは、なかなか難しい仕事だった。瞬が高生加基臣の前だというので緊張していなかったら――瞬が平生の洞察力を発揮していたら――多分、俺の様子が尋常でないことに気付いていただろう。

 それでもしばらくの間、俺と瞬は氷河の父と氷河の親友らしい会話を続けることができていた。その均衡が微かに揺らめいたのは、瞬が早雪のことに言及した時だった。
「あ…あのっ、氷河の…氷河のお母さんって……僕、そんなに氷河のお母さんに似てますか? 氷河はいつもそう言うんですけど」
 瞬の言葉は、俺を高生加氷河から高生加基臣に引き戻してくれた。引き戻して、俺に奇妙な錯覚をもたらした。

 似ている――。確かに似ていると思った。
 目だけじゃない。緊張するとどもる癖、所在なくなると瞼を伏せて俯く仕草、それは早雪のものだ。
 この錯覚は何だろう。
 もしかしたら、早雪が私を押しとどめようとしているのだろうか。これは、氷河を悲しませるようなことをしないでくれと、早雪が俺を戒めるために見せている幻なんだろうか。

 俺は慌てて、再び氷河の父の仮面をかぶろうとした。
「――似てるよ。氷河は小さい頃に母を亡くしたから憶えてはいるまいが、仕草も喋り方も――なにより彼女は人を乗せるのがうまくてね。彼女に力づけられると、私は何でもできるような気になった」

 そうだ。彼女は素晴らしいひとだった。誰よりも俺を、氷河を、愛してくれた。
 まるで自分に言いきかせるように、俺は早雪のことを語った。
 彼女を裏切ることなど、思いもよらない。いくら、この夜のために俺が親父に生まれ変わったのだとしても――そう俺は思った――時。

 俺の話に耳を傾けていた瞬の目から、涙が零れ落ちた。
 そして、俺は、自分があまりに早雪のことを語りすぎたんだと気付いたんだ。
 瞬が母親の再婚で傷付いたことを、俺は知っている。その瞬の前で、亡き妻の思い出を熱っぽく語る男なんてものが、瞬を傷付けないはずがない。

 俺は――そうだ。瞬はそういう親父に同情したのだと思っていた。そして、そんな親父に憧れて、俺のお袋の身代わりと知りつつ、瞬は親父に抱かれたのだと思っていた。
 本当にそうだったんだろうか。
 もし今ここで『おまえを抱きたい』と俺が言ったら、瞬はその身を俺に預けてくれるんだろうか。そんな卑怯な手を使って、俺は、早雪の面影を振り払い、瞬を抱くことができるんだろうか。それで俺は良心に痛みを覚えないんだろうか。
 俺は――俺は混乱していた。

 相変わらず泣き虫な瞬。五十年以上も前の今日、夜の庭から盗み見た瞬の細い指――。
 俺は多分、今、気がおかしくなっているんだ。だから――だから、尋ねずにいられない。

「私が――君を抱きたいと言ったらどうする?」
と。

「え?」
 瞬が驚いて瞳を見開く。
 そうだ。そして、首を横に振ってくれ。そうすれば俺は、早雪と氷河を裏切らずに済む。

「君は――どうする?」
 拒絶してくれと願いながら、俺はどこかで期待していた。早雪を、氷河を、裏切りたくないと思いながら、それでも瞬を俺のものにしたかった。そのために、俺はここにいるんだ。そのために、俺は高生加基臣に生まれ変わったんだから。

「ぼ…僕が氷河のお母さんに似てるから……ですか?」
 瞬の問いに、俺は答えなかった。そんな真摯な瞬の問いにさえ、俺の中では卑怯な計算が働いていた。そうではないと答えれば、瞬は俺に失望するだろう、と。

「…いいですよ。氷河のお母さんの代わりなら――」
 そして、瞬の答えは俺の予想した通りのものだった。

 その時、俺は知った。瞬がそんなにも、自分の父を忘れてしまった母を哀しんでいたことを。亡くした妻を愛し続ける男を慰めるために、その身を投げ出すことも厭わないほど――。
 その肩の小刻みな震えに気付き、俺は、駄目だ、と思った。こんなことで瞬を手に入れることなどできない。できるはずがない――と。

 だが、次の瞬間に、俺の心を翻させる一言が、瞬の唇から発せられた。
「僕も――きっと他の人を思い浮かべると思うから」

 その言葉を聞いた時、俺は、高生加氷河でも高生加基臣でもないものに変わっていた。






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