「氷河の好きな人のこと、教えてください」 俺は怪我をした瞬をそのまま瞬の家に送り届けることもできず、自宅に連れ帰った。途中、車の中では俯いたまま終始無言だった瞬が、客間に落ち着くなり、俺に尋ねてくる。 「知ってどうする」 「その人に、氷河のものになってくれるように頼みます」 「……」 どんな気持ちで瞬はそう言ったのか――俺は、瞬が痛々しくて見ていられなかった。 そこまで自分の気持ちを犠牲にして、瞬の得るものはいったい何だ? 氷河にはそんな価値すらないというのに。 「…教えてやれないこともないが――君はそれでいいのか?」 俺が尋ねると、瞬は一目で虚勢とわかる態度で――肩に力を入れて、だが、きっぱりと答えてきた。 「僕の望みは、氷河が氷河らしく氷河の思う通りに生きていてくれることだけです」 「君は――君はどうなる?」 俺の問い質しは、瞬には辛辣なものだったかもしれない。だが、尋ねずにはいられなかった。瞬の俺への――氷河への思いは、そんなにも簡単に諦めてしまえるものだったのか、と。 俺は、しかし、やはり尋ねずにいた方がよかったのかもしれない。それは、瞬を苦しめるのに役立っただけだった。 「僕――僕は、氷河にいつも聞かされていたんです。お母さん以上の女の人を見付けて、お父さんみたいに、一生その人を思い続けるのが、氷河の夢だって」 「だから君の思いはどうなってもいい、と?」 「あ…あたりまえでしょう! あなたも氷河の父親なら、氷河の幸福を望むでしょう? 社会的に成功し、他人に尊敬され、人が羨むような愛情に満ちた家庭を築く――あなたみたいな生き方です。氷河には、そんな生き方を現実にできるだけの力があるし、そうなっていいはずの人間だ」 「君の気持ちに気付かないままで?」 「そんなもの、どうだっていいんです!!」 肩肘を張って無理に気丈を装っている瞬の瞳だけが、瞬の意思を裏切っていた。 「氷河の夢は僕の夢でもあるんです。一人の人を一生思い続けるっていうのは!」 そうだ。瞬は母親の再婚にひどく傷付いていた。そして、俺は、瞬のその気持ちを利用したんだ。『お袋以上の女を見付ける。女はその一人だけでいい』――俺がそう言いだしたのは、そういうセリフが瞬の好意を得るのに役立つだろうと考えたからだった。そんな卑劣なことを思いつくだけでも、俺は瞬にふさわしい男じゃなかったんだ。 「…いずれにしても、君にその人のことを教えるわけにはいかないな。他人に頼まれて、人が人を愛するようになることがあるとも思えないし、君が嫉妬に動かされて、その人に害を為すことがないとも限らないだろう?」 瞬を侮辱するようなことを言ったのは、結局、俺が高生加氷河の頃から変わらずに卑怯だったからなのかもしれない。俺は瞬がどれほど俺を愛してくれていたのかを知りたかったんだ。そして、胸の奥に潜ませている思いを外に吐き出させてしまえば、瞬も少しは楽になれるんじゃないかと思った。それほどに、瞬は苦しそうに見えた。 いつもは控えめでおとなしい瞬が、さすがにそんな侮辱には耐えられなかったのか、激昂する。 「あ…あなたに何がわかるっていうんです! 何もかも――人生の何もかもが自分の思い通りになって、愛した人に愛されて、挫折や絶望に縁のない人生を送ってきた人に! 絶対に氷河に知られちゃいけないって、それで氷河を悩ませちゃいけないって、毎日毎日自分に言いきかせて、氷河の側にいるために無理に親友の顔を作って、僕は十年近くを過ごしてきたんだ! 氷河の好きになった人を傷付けるくらいなら、僕はとっくに氷河に自分の気持ちをぶつけてた! 氷河を苦しませることも、悩ませることも、悲しませることもできなかったから、僕は今まで黙って氷河を見続けてきたんだ! 氷河のためにならないことをするくらいなら、死んだ方がましだっ!」 ――俺はいつも、何かしでかしてしまってから、自分の無思慮を後悔する。俺は瞬を泣かせたくて、そんな侮辱を口にしたわけじゃなかった。 涙を拭い、唇を噛みしめ、一瞬俺を上目使いに睨みつけると、瞬はそのまま客間を出ていこうとした。 慌てて俺は瞬の腕を掴み、その場に引きとめた。 かわいそうに瞬の頬は涙に濡れていて――俺は本当に馬鹿だ。人の二倍の人生を生きてきたのに、少しも大人になっていない。 「謝罪する。君がそんな子でないことはわかっていたはずだったのに、ひどいことを言った。すまない」 いや、大人にはなっているんだろう。それも、狡猾で汚れた大人だ。瞬の純粋さに惹かれ、その純粋さを利用しようとするような――。 「私はただ、君の口から聞きたかっただけなんだ。君がどれだけ氷河のことを愛してくれているのか」 瞬のこの純粋な思いを抱きとめ、慰めてやれば、それでなくても傷付き張りつめていた瞬の心は、俺を頼らずにはいられなくなるだろう――俺の頭の中では、そういう計算が瞬時に行われていた。こんなに傷付きやすく繊細な瞬を、他人を傷付けることしか知らないあの氷河の側に、これ以上置きたくなかった。氷河のために瞬が傷付くのを、これ以上見ていたくなかった。 今の俺は、他人を傷付けながら、自分だけが傷付いていると思い込んでいた、周囲の見えない子供じゃない。今の俺なら、瞬を傷付ける全てのものから、瞬を守ってやることができる。 「君は氷河が好きなんだ」 おそらく、一生自分だけの中にしまいこんでおくつもりだったのだろう瞬の秘密を、俺は瞬に知らせてやった。 「今まで誰にも――氷河にも告げたことはなかった」 秘密は秘密だからこそ、誰かに知っていてもらいたいと望んでしまうものだ。 「そして、これからも言うつもりはない…」 まして瞬は、誰よりも知っていてほしい氷河にだけは、決してその秘密を打ち明けられないのだから。 「氷河に言うことができないのなら、代わりに私が聞いてやる。君が氷河を愛していることを、私だけは知っていてやる。それで少しは楽になれるだろう? これ以上、氷河のことで君を傷付けるわけにはいかない。このままでは君は壊れてしまう」 俺が差し伸べた腕から、瞬は今度は逃げようとはしなかった。おとなしく身を委ね、まるで仔犬が飼い主に甘えるように、俺の胸に頬を擦り寄せてくる。 俺は今や、瞬の秘密を知り、それを認め、許しているただ一人の人間で、瞬は初めて自分の心を偽らずに時を過ごせる場所を得たことになる。これまで張りつめた日々が続いていただけになおさら、瞬は俺の前で弱々しく脆く頼りなかった。 ――俺はそうして、氷河を裏切り、早雪を裏切り、瞬の純粋な心を裏切った。瞬を俺のものにしたいという邪欲に打ち勝てずに。 俺が高生加氷河だった頃胸中に抱えこんでいた、瞬をその手にしている父への妬みと憎しみに復讐するように、俺は、氷河を思って泣く瞬をこの胸に抱いたんだ。 |