親父の死んだ時のことは、あまり俺の記憶に残っていない。憶えているのは、知らせを受けて日本に帰国した時、最後の桜が俺を出迎えてくれたことくらいだ。 ――桜の季節がすぐそこまで来ていた。 春を楽しむため庭の東側に植えられていた四、五本の桜が濃い赤の蕾を付け始めているのを、枕に肘をついて眺めながら、俺は短く吐息した。 「基臣さん…?」 俺の横で丸くなって眠っていた瞬が、まだ少し眠そうな目で俺を見あげてくる。 「今日は久し振りのオフだから――もう少し眠っていなさい。春眠暁を覚えずと言うしな。誰もこの部屋には来ないよ」 「はい」 夕べも遅かったから、瞬は本当に眠かったのだろう。こくりと頷いたかと思うと、すぐにもぞもぞと毛布の中に潜り込み、俺の胸に額を押しつけるようにして、瞬は目を閉じてしまった。 こんな時はやっと懐いてくれた猫のように可愛いのに、会社にいる時の瞬は妙にお堅くて――まあ、それも可愛い。 やはり瞬を連れていくことはできそうにない、と俺は思った。 庭に面したガラスのドアの向こうには浅い春の朝の光が満ちていて、夕べ瞬が半分だけ開けたままにしておいた水色のカーテンを額縁代わりに、眩しい春の絵を描きだしている。俺に比べれば、瞬は、この光のように、まだ生まれたばかりの光だ。二人分の人生を生きた俺の三分の一も、生きるということをしていない。これから俺が遭うはずの飛行機事故に巻き込むわけにはいかなかった。 だが、ひとり残された瞬は、俺の死後、いったいどうやって傷付いた羽を癒すのだろう。それが、俺のただ一つの憂いだった。 今更瞬が氷河に弱音を吐いてみせるとは思えない。瞬は、氷河の負担になるくらいなら、自分の破滅を選ぶ子だ。だが、頼るものを失った瞬が、いったいほんの一時でも、一人で立っていることができるのだろうか――? 自分が心地良いからといって、俺に甘えすがる術を瞬に教え込んだことを、俺は今になって後悔していた。 本当はわかっていた。全てが氷河にかかっているということは。 そして俺は氷河が――自分自身が――信用できなかったんだ。 自分だけが傷付いていると思い込み、その不幸に酔っているような氷河が、ひとり残されて途方に暮れている瞬に、どう対峙するのか。ひとりきりになった瞬に、これがチャンスとばかりに付け込むのならまだいい。だが、俺の死を嘆き悲しむ瞬に氷河が嫉妬して逆上し、瞬を行き場のないところに追い詰めることはないと、誰に言えるだろう。 俺は、そういうこともしかねない最低の男だった。 「……基臣さん、何か心配事でもあるんですか?」 ふいに胸元の辺りから、瞬の声が聞こえてくる。 声のした方に視線を巡らすと、瞬が横になったまま上目使いに俺を見詰めていた。 「眠ってなかったのか?」 「眠れませんよ。基臣さんの気が張りつめている時は、周りの空気まで緊張しますから」 「…私も修行が足りないな。そんなことを悟られてしまうとは」 「わかるのはきっと僕だけですから、安心してらしてください」 瞬は俺の"心配事"が何なのかは聞いてこない。俺の"心配事"を心配してはいても、根堀り葉堀り聞いてくるような子じゃないんだ。だが、だからこそ何かを言ってやらないと、瞬はいつまでも俺の"心配事"を心配し続けるだろう。 俺は、瞬の髪に指を伸ばしながら、尋ねた。 「大事なことだ。瞬、泣かないで答えてくれ」 「はい?」 前置きだけで、それが氷河に関することだと察したらしく、瞬はほんの少し肩を強張らせた。 「……おまえはなぜ氷河を好きになった? なぜ好きなままでいられるんだ?」 しかし、瞬の肩はすぐに弾力を取り戻した。俺の質問が意外すぎたらしい。 少し考えこんでから、口を開く。 「…基臣さんは知らないでしょうけど、氷河は子供の頃からすごく優しくて、すごく辛抱強かったんですよ。泣き虫だった僕を、いつも慰めて励ましてくれて、そのたびごとに僕はもう泣かないって、氷河と約束するんだけど、その約束を守れたことなんて一度もなかった。なのに氷河は、ぐずぐず泣きだした僕を、嫌な顔ひとつしないでまた慰めてくれるんです。僕、自分でも自分が嫌になるくらいだったのに、氷河の辛抱強さがほんとに嬉しくて、尊敬もしてた。氷河以上に優しい人には、いまだに出会ったことがな――」 言いかけて瞬は、横になったままの状態で顔を伏せてしまった。 取ってつけたように、 「あの…もちろん、基臣さんは別にして、です」 と言葉を継ぐ。 俺は、思いがけない氷河の人物評に驚きを禁じえなかった。氷河が優しいなどという考えを、俺はこれまで一度も抱いたことがなかった。氷河は短気で、我儘で、思いやりがなく、人間として最低のランクに属する男だと思っていた。 だが、瞬の語る"子供の頃"の記憶は、確かに俺の中にもある。あの頃の俺は、自分が瞬のいちばんの友達だということが嬉しくて得意で――何もかも狂ってしまったのは、親父のせいだった――? 「…そうか」 俺は自嘲の笑みを浮かべた。 そうだ。私がいなくなれば、氷河は、瞬に優しくできる本来の氷河に戻れるんだ。 後のことを心配することはないのかもしれない。私さえ消えてしまえば、全ては元に戻るだろう。 俺は、そう信じることにした。 |