「らしからぬドジを踏んだものですね。片手で十分支えられそうな子供を相手に」
「思っていた半分も体重がなくて、かえって重心を見失ってしまったんだ」
「……確かに恐ろしく痩せこけた子供です。 我等が国土【キ・エン・ギ】にこんな子供がいたとは…。我々はもっと精進しなければならない」
 ひどく深みのある三種類の声が、ナキアに静かな覚醒を促した。
「ああ、気がついたようだ」
 そう言ってナキアの顔を覗きこんできた青年の瞳の色。
 それは、ナキアがこれまで一度も見たことのない色の瞳だった。濡れた黒髪を額に貼りつかせた青年の瞳は、青の上に更に青を重ねたような紺青色をしていたのだ。
(ああ…神様の瞳だ…)
 そう思い、大きく息を吸い込み、ナキアはもう一度目を閉じた。
 こんな優しい面差しの神様がいるところでなら、飢えも孤独もなく安らげる。自分は死んだのだ。死んで本当によかった――そうナキアは思った――のだが。
「まだ意識がはっきりしていないようですね」
「いや、この子は河に落ちたわけでも頭を打ったわけでもないんだから……察するに腹が減りすぎてぶっ倒れたんだよ。イルラ、おまえ、何か食い物を持っていないか」
 紺青の瞳の青年の後ろから降ってきた声が天上の神聖さにそぐわない現実味を帯びているのに、ナキアは違和感を覚えた。もしかしたら自分はまだ死んでいないのではないか。軽い失望と共に、再び目を開く。
 そして、次の瞬間。
 ナキアはがばっと体を起こし、目の前に差し出されていたナツメ椰子の実にかぶりついていた。
「ほらね」
 我が意を得たりとばかりに頷く青年と、彼に肩をすくめて見せる、イルラと呼ばれたもう一人の青年。そして、先程の紺青の瞳の青年。この三人が、村のどんな女も太刀打ちできないほど美しい男性だということにナキアが気づいたのは、赤いナツメ椰子の実を六個も食べ終えた後だった。
 イルラと呼ばれた青年が、三人の中では最も年かさのようだった。二十五、六に見える。 あまり長くない暗褐色の髪と黒い瞳。端正な面差しは、しかし、その穏やかな表情のせいで、暖かみを感じさせる。
 イルラからナツメ椰子を受け取りナキアに手渡してくれたもう一人の青年――ウスルと呼ばれていた――は、おそらくイルラより三、四歳は歳下だろう。まっすぐな長い黒髪を右肩の上で一つにまとめ、灰色の瞳をしている。薄く微笑を浮かべていたが、怜悧な眼差しをしていた。
 そして、紺青の瞳の青年―。
 彼の波打つ黒髪は、広い肩を軽く覆っていた。彼のどこまでも――どこまでも優しい瞳が、しっかりとナキアの姿を映し出している。
 彼等は三人が三人とも、ナキアの村の地主の奥方でさえ身に着けたことのないような、柔らかく上等の衣装をまとっていた。膝上までの短衣は細かい刺繍がほどこされており、ナキアの一年分の食事を賄えるほど高価なもののようだった。ナキアより頭二つ分は長身の、揃いも揃って美貌の主に興味深げに見詰められ、ナキアは思わず七個目のナツメ椰子に歯を立てるのをやめたのである。自分のぼろぼろの麻の短衣、擦り切れた木の皮の腰帯が、ひどくみすぼらしく思えた。
「人心地がついたら、家まで送っていこう。もう少し栄養のある食事をとらせるようにご両親に進言したいし…。君、名は何というんだい?」
 紺青の瞳の青年は、ナキアにそう尋ねてから、南風に吹かれてほとんど乾いていた紫の短衣の裾を払った。そして、思いついたように、
「私の名はバーニという」
と名乗った。
 その時になって、やっとナキアは気づいたのである。この青年が、河に落ちそうになった自分を助けようとして、彼自身が河に落ちてしまったらしいことに。
「家はない。親もいない。ナキア。あの…ありがとう、助けてくれて」
 尋ねられたことに順に答えてから、ナキアはバーニに礼を言った。
「家がない…!? では、君はどこで寝起きしているんだ!」
 ナキアの返事を聞いた途端、それまでひたすら優しげだったバーニの口調が激変する。
 突然、まるで責めるように声を荒げたバーニに、ナキアはびくっと肩を震わせた。
「こ…ここ」
「ここ? ここ…とは、この場所のことか?」
 バーニは、今度はあっけにとられた表情になった。
「では、我々は君の家に断りもなくあがりこんでいたわけか」
 ウスルが、足元の芝草に視線を落としながら呟く。
 それから彼は、少し懸念の混じった視線をイルラに投げた。懸念は的中したらしい。
 しばらく何事かを考えこんでいるようだったバーニが、ウスルとイルラの前でナキアに手を差しのべ、至極あっさりと提案した。
「君、ナキア? 私と一緒に来ないか? 私は君に、生活の場と日々の糧と友情を与えることができる」
「陛下!」
 バーニの提案に、イルラとウスルが同時に声をあげる。驚きと抗議と諦めとが複雑に入りまじった声音だった。だが、何を言っても彼の意思は変えられないだろうという諦めの感情が、最も強く彼等の口調を支配していた。実際彼等は、バーニに対して異議を唱えるようなことはしなかった。逆に、バーニの方が二人を説得するような物言いになる。
「こんな小さな子供が、こんなに痩せた手脚をして、家もなく、河岸で寝起きしているんだ。私は、我等が国土【キ・エン・ギ】の民はみな豊かで…いや、豊かな心を持っている者が大部分だと信じていた。貧しく孤独な子供がいたら、救いの手を差しのべてやる者が、それぞれの村に一人はいるだろうと――」
「残念ながらそうではなかったようですね」
 冷淡にもとれる口調で、ウスルが顎をしゃくる。
「反対なのか」
 バーニは瞳を曇らせた。
 ウスルはほとんど表情を変えない。
「反対はいたしません。我等が国土に住む者を幸福にするためにこそ、我々は存在するわけですから。この子供に出会ったのも神々【アヌンナキ】のご意思なのでしょう。ただ……」
「ただ?」
「陛下には、この子を救ったからといって、それで自己満足などなさらないという確約をいただきたい」
「このような子がもっといるかもしれないというのだな」
 ウスルが微かに首肯する。
「それさえ正しく認識して下さっているのであれば、私は何も申しません。ナディンやアルディがこの子の良い友人になるでしょう」
 バーニは連れの青年の許可を手に入れるとぱっと破顔した。
 ナキアはその屈託のない笑顔に、ぼーっとみとれてしまったのである。当人を無視して進む二人の会話に口を挟む余裕もなかったナキアの心を、それまでずっと無言だったイルラが代弁してくれた。
「だが、いちばん重要なのは、この子の意思だよ」


 家も家族も友人もない人間を最も強く支配するもの。それは"飢えたくない"という本能だろう。
 だが、ナキアが、どこの誰とも知れない青年が差しのべてくれた手に自分を委ねようと決めたのは、その青年の優しい眼差しに離れ難い――あるいは、逃れ難い――運命のようなものを感じたからだった。これまで幾度もナキアの窮地を救ってくれた運命の神の意思を、バーニの瞳の中に見つけたような気がしたからだった。
「夕方にはエリドゥの都に着くつもりだからね。とばすからしっかり掴まっているんだよ」
 生まれて初めて見る"馬"という生き物の背に跨がって、バーニと共に故郷の村を後にした時ナキアの胸に去来したものは、不安でも感傷でもなく、不思議な高揚感だった。
 天上の七神が自分のために用意してくれた運命の中にやっと飛び込んでいけるのだと、ナキアはその時思ったのである。








[next]