「ナキアさん、こっちです!」
 そうしてナキアが案内されたのは、広大な神殿の中庭の中腹に張り出した広い露台だった。周囲に背の高い椰子の木が植えてあり、その葉が強い陽射しを遮って心地良い木陰を作っている。石でできた長い卓の左右に、昨夕見た青年たちがそれぞれ着席しており、卓の上には見たこともないような御馳走がずらりと並べられていた。
 バーニの姿だけがない。
 ナキアは神のような青年たちに見詰められることに戸惑いながら、ナディンが示してくれた椅子に恐る恐る腰をおろした。
「さて、話は食事をしながらにしよう。さっきからアルディの腹がうるさく鳴りっぱなしでね。ナキアも来たことだし、もう食べてもいいよ、アルディ」
「待ってましたぁ!」
 イルラの言葉を最後まで待たずに、アルディは、麦を練って焼いたニンダに食らいついていた。頬張ったニンダを飲み込む間も惜しむように、右手が石榴の実を掴んでいる。
 ナディンに勧められて、ナキアはおずおずと目の前にあった葡萄の房に手を伸ばした。
 それを確かめてから、イルラがゆっくりと口を開く。
「ナディンに聞いたよ。我々が何者なのかを説明しておかなかったせいで、君を不安にさせてしまったそうだね。すまなかった」
 そう謝罪するイルラの口調にも表情にも、ナキアを蔑んでいる様子は感じとれない。醜くみすぼらしい少女をからかうために彼等がナキアをここに誘【いざな】ったのではないことは、最初にバーニのあの瞳を見た時からわかっていたのに――と、ナキアは今更ながらに自分の卑屈を後悔した。
 朝の光の中で、彼等が美しいことは昨日よりも明確に見てとれた。これがナディンの言うように美しい心の表れなのだとしたら、彼等の中にはどれほどの慈愛が隠されているのだろうと訝るほどに。優れた心が彼等の表情を作っているのは事実なのだろうが、たとえそうでなくても――まず、造形的に彼等は美しかった。
 バーニを含め背も高く体もできあがった大人四人と、ナディン、アルディのように首も細い年少の二人が、どういう共通項で結ばれて一緒にいるのだろう。彼等の共通点といえば、ナキアには、やはりその美しさしか見いだせなかった。だが、彼等はそれぞれに個性的で、とても兄弟や従兄弟同士といった親族の集まりにも見えない。
 ナキアの疑念を察したかのように、彼等のリーダー格らしいイルラが食器を食卓の上に戻し、ナキアを見る。
「で、我々の立場を説明する前に、陛下の…昨日会ったろう? バーニ様のことだ」
 改まったイルラの態度につられて、ナキアも居住まいを正す。
「陛下のことを教えなければならないと思うんだが……」
「その前に我等が国土【キ・エン・ギ】の地理だろう」
 横からイルラの言葉をさらったウスルは、あの女神のように優麗なナイドの横で、彼のためにオレンジの皮をむいていたらしいナディンの名を呼んだ。
「ナディン。そんなオレンジの皮むきなんて食う本人にやらせろ。それより、ナキアに我等が国土の地理を説明してやってくれ。なるべくわかりやすく、な」
「あ、はい。ナイド、ちょっと待っててね」
 ウスルをぎろりと睨みつけたナイドが、ナディンには素直にこくりと頷き返す。
 手にしていたオレンジを陶器の皿の上に戻すと、ナディンはナキアの方に向き直った。
「え…とね、我等が国土には大きな河が二つ、急流【イディグナ】と大河【ブラヌン】が西のアララトの高地を源流として東の海に注いでいます。ナキアさんの村はそのうちの大河の側にあった村なんです。ナキアさんの村もそうだったと思うけど、我等が国土にはあんまり雨が降らないから、国土の民はみんな河の側に町を作って暮らしてるの。エリドゥはほとんど海に近いところにある町で、我等が国土の中ではいちばん大きい町。でも、エリドゥほどじゃなくても、ウルとかキシュとかウルクとか、大きい都市は河沿いにたくさんあって、それらはみんなエリドゥの王に服属しています。ですから、陛下はエリドゥの王であると同時に他のすべての都市の王を統べる王で、神に選ばれたただ一人の王です。他の都市の王の任免権も陛下が持っていて、だから陛下に善政を施してもらうのは、我等が国土の民のためになるんです」
 ナディンの説明は、祖国の地理も知らない者向けの説明だったのだろう。確かにわかりやすかった。しかし、ナキアは無言でいた。
 ナディンが心配そうにナキアの顔を覗きこんでくる。
「あの…わかりにくかったですか? つまり、我等が国土は大きな二本の河沿いに点在する都市の集合体だということなんですが…」
 ナキアが無反応でいたのは、しかし、ナディンの説明が理解できなかったからではなかったのだ。
「そ…そのたくさんの都市の王様を統べてる王様っていうのが…バーニ…なの…?」
「ああ! ちゃんとわかってくださってたんですね! その通りです」
 震える声で尋ね返したナキアに、満面の笑みをたたえたナディンが頷いてみせる。
 ナキアは今度こそ本当に言葉を失った。
 ナキアにとって、広大な国を治める王というのは神よりも遠い存在だった。神は天にも地にも河にも星にもいるが、王はその居場所すら定かではない。どこか立派なお城にいるものなのだろうという程度の認識はあったが、少なくとも、それまでのナキアの生活には何の関わりもない存在だったのだ。
 そんな偉い人が、自分のように取るにたりない孤児に目をとめてくれた――という事実さえ、ありうべからざることのように思われる。今日の昨日、実際にあったことだというのに、ナキアには現実感がまるで感じられなかった。
「陛下は今、行政官たちと会議中で――なにしろお忙しい方だから、しばしば君に会うことはかなわないだろうが…」
「僕たち、ナキアさんのこと、ちゃんとしてやってくれって陛下に頼まれましたから、心細がらないでくださいね」
 ウスルの言葉をナディンが継ぐ。しかし、ナディンの慰めはかえって、バーニは遠い人なのだというナキアの落胆を深くしただけだった。
 そして、自分の意気が消沈していく様に、ナキアは我がことながら驚いたのである。いったい自分は、あの優しい瞳の人に何を期待していたのだろう――と。
 見たこともない豪華な食事、屋根のある部屋、柔らかく清潔な寝床――を与えてもらっておきながら、これ以上の親切を望むのは間違っているし、自分が彼に望む"これ以上のこと"が何なのかもわからない――。
 ナキアは深呼吸を一つした。
 バーニが遠い人だということはわかった。では、今自分の目の前にいる華やかな青年たちは? 
 未練を振り払うように、ナキアは顔をあげた。
「それで、あなたたちは――バーニの…王様の家来なの?」
 ナキアの問い掛けに、それまでナディンの横で一言も口をきかずにいたナイドが、凄まじい怒気を迸らせてナキアを睨みつけた。
「家来だと?」
 それは、彼にしてみれば、ほんの少し半眼になっただけの、どうということもない所作だったのかもしれない。だが、整いすぎるほどに整った女神のごとき美貌の青年に不愉快そうに睨みつけられたナキアは、それだけで背筋が凍りついてしまったのである。
「僕たち、シュメールなんです」
 ナイドの横から、うららかな春の陽光のようなナディンの笑顔がのぞかなかったら、ナキアはそのまま夜まで凍りついたままでいたに違いない。
「シュメール? それ、家来とは違うの?」
 ナイドの顔を見ないようにして、ナキアはナディンに問い返した。それに対する答えともいえない答えが、牛肉の燻製を口いっぱいに頬張っていたアルディの口から返ってくる。
「へー、陛下の顔を知らないってのはわかるけど、我等が国土にシュメールを知らない奴もいるんだー。驚きだなー」
「俺は貴様の食欲の方が驚きだ。朝っぱらから、よくそんなに食えるな」
「なんだよ。ナイドが食わねーのは朝だけだろ。食った量、一日分まとめて比べたら、絶対ナイドの方が俺より食ってると思うぞ。成長期も過ぎたおっさんがさぁ!」
「俺がおっさんなら、イルラなんぞ爺【じじい】だな、耄碌爺【もうろくじじい】」
「あっ、ひっでーの。イルラだって別に好きで二六にもなって嫁のきてがないわけじゃねーのにさー」
 勝手なことをわめきだしたナイドとアルディに、とばっちりをくった恰好のイルラが苦虫を噛み潰したような顔になる。見兼ねたウスルが、当の二人ではなくナディンに目で合図を送り、それを受けたナディンが二人の間に割って入った。
「ナイド!」
 ナディンに名を呼ばれた途端、ナイドが口をつぐむ。
「駄目だよ、ナイド。そんなこと言っちゃ。朝食欲があるのはいいことなの。アルディはナイドのこと心配してくれてるんだから。アルディもね、年上の人は敬わなくちゃいけないんだよ。ナイドは僕たちより大人で体も大きいんだから、たくさん食べて当たり前なの」
 おそらくその場にいた全員が、ナディンの説得を何かどこかがおかしい理屈だと感じていただろう。だが、ナイドもアルディも、ナディンに異議を申し立てはしなかった。
 彼等の気持ちは、ナキアにもわかるような気がしたのである。可愛らしい顔を無理にしかめてたしなめてくるナディンには抗し難い暖かさがあって、彼に逆らったり傷つけたりしたくないという気持ちを揺り起こすのだ。
 ナイドがナディンにこくりと頷く。
 アルディは仕方なさそうに肩をすくめた。
「毎度のことながら、ナディンには弱いんだから…」
 ぶつぶつ言いながら、アルディはまた食卓の上の皿に手を伸ばし始めた。
 氷のようなナイドの美貌に圧倒されていたナキアも、思いがけない彼の素直さに苦笑を洩らしてしまったのである。自分より六・七歳は年上のナイドを、ナキアは『可愛い』とさえ感じた。
「え…と、で、シュメールって結局何なの? 初めて聞く言葉だけど、どういう意味があるの?」
 気を取り直して尋ねたナキアに、ナディンがぱちくりと瞬きをする。
「い…意味…? シュメールの?」
 ナディンは一瞬きょとんとしてから、困ったようにナイドを見やった。どうやらそれは、『花はどうして花というのか』という疑問に近い問い掛けだったらしい。
「あ…ナイド、教えてあげて?」
 解説役を振られたナイドにも、それは同様のようだった。
「意味も語源も不明。とにかく昔からそう呼ばれている。西の方に似た音の言葉があるようだが、それは"文化を伝える者"とかいう意味だそうだ。だが、その言葉と、我々の言う"シュメール"との関連も不明」
「ナイドでも知らないの…」
 少しがっかりしたようにナディンが肩を落とすと、石榴の果肉をかじりながらアルディが口を挟んできた。
「意味なんかどーでもいいじゃん。シュメールは、我等が国土の王と民のための歌うたい。それだけだろ」
「神に選ばれた、な」
 ウスルが補足説明をする。
 アルディはそれを聞いて、くしゃりと顔を歪めた。
「それ、本当かなァ。俺はいまだに信じられないでるぜ。俺を選んでくれたのは神じゃなく、イルラやウスルたちじゃん」
「我々を通して、神がおまえをお選びになったんだ。おまえだって、我々が他の人間たちと違うことはわかるだろう」
「そりゃまー、歌を聞けばね」
「歌うたい? あ、じゃあ、朝聞こえてきたあの音って、もしかしてあなたたちが歌ってたの?」
 ナキアが尋ねると、ナディンの横で静かになっていたナイドがふいに眉をひそめた。
「…あれが聞こえたのか?」
「ええ。歌詞までは聞きとれなかったけど」
「ふ…ん?」
 探るような目つきでナイドに見詰められ、ナキアはどぎまぎした。この切れ長の目はひどく心臓に悪い。そう思った。
「そ…それで、その神様に選ばれた歌うたいの人がなんで私の村にいたの?」
 ナイドの視線を逃れるために、ナキアはイルラとウスルの方に顔を向けた。答えてくれたのはウスルである。
「我々シュメールは本来六人で構成されている。天神アンに選ばれた者、地神エンリルに選ばれた者、月神ナンナルに選ばれた者、太陽神ウトゥに選ばれた者、金星神イナンナに選ばれた者、そして、大地母神ニンフルサグに選ばれた者、の六人だ。これにエリドゥの守護神にして水の神であるエンキに選ばれた王が加わって、運命を定める七神の意思を地上に現し国土を治める――ということになっている」
「ここまできたら、やっと自己紹介ができるな」
 イルラが長かった道のりに嘆息し、それからナキアに微笑を投げた。
「私が天神アンに選ばれた、アン・イルラ。さっきアルディに馬鹿にされた通り、二六になる」
「そして、俺が地神エンリルの意思を受けるエンリル・ウスル。イルラより四歳若い」 とウスル。ウスルの自己紹介を聞いたイルラが、軽く彼を睨んだ。
「でさ、こっちの口が悪くて性格も悪いナンナル・ナイドが、月神ナンナルに選ばれたおっさんで、ウスルと同い年」
 ナイドの紹介はアルディが買って出た。
「そんで、俺が太陽神ウトゥに選ばれたことになってるウトゥ・アルディ、十二歳で」
「金星神イナンナの座を務めているのが僕で、イナンナ・ナディン。僕も十二歳ですけど、僕はアルディより二年先輩。今はね、この五人しかいないの。ニンフルサグの座にいたリムシュが一週間前に結婚してディルムンの島に行っちゃったから」
「で、まあ、リムシュと付き合いの長かった俺とイルラと陛下が、リムシュとその花嫁をディルムンまで送っていった帰りに、おまえのいた村を通りかかったというわけだ」 と、最後を締めたのは、エンリル神に選ばれたというウスルだった。
 ナキアは――そして、ナキアは、彼等の自己紹介を聞いて呆然としてしまったのである。口をついて出たのは、至極素朴な疑問だった。
すなわち、
「じゃあ…じゃあ、あなたたち、神様に会ったことがあるの?」
である。
 途端にアルディが、手にしていた石榴の実を皿の上に放り投げた。
「ほらぁ、普通こう思うって! これが正しい考え方だよ。神に会ったこともないのに、神の意思を受けてるって信じこめる方がおかしいんだ!」
 口をとがらせるアルディの頭をウスルがぽんぽんと叩く。そして、彼はナキアに向き直った。
「我々は神に会ったことはない。だが、神によって特別の力を与えられた。…もっとも、その力を見極められるのもシュメールだけなんだがね」
 神に接したことがあるのは初代の王とシュメールだけなのだと、彼は言った。王だけが世襲制で、シュメールは一代限り。大抵は、王や国への忠誠と同じだけの愛を向ける対象を得て、その事実を神に報告した時――つまり結婚した時に、シュメールとしての力を神に返上する。それと同時に神は次のシュメールとなるべき少年に"力"を与える――ということだった。
「少年? シュメールになるのは男の子だけなの?」
「そうだと断言はできないが、百数十代続いてきたシュメールの歴史の中で、女性が選ばれたという記録はないな。女王ならお三方いらっしゃるんだが」
「…神様って綺麗な男の人が好きなのね…」
 ナキアの呟きに実感が籠もっているのを感じたらしく、ウスルは苦笑をみせた。
「次代のニンフルサグのシュメールは、先代が力を返上した後で最初に行われる月例祭で選ばれるんだ。つまり明日だよ。君は百二十番目のニンフルサグの座のシュメールが選ばれるところを見物できるというわけだ」
「だからさぁ、今日は休息日なんだ。明日に備えて、剣の練習も歌の練習も接見もなし。 あー、もー、毎日こうだといいなー」
 アルディはやっと食事を一段落させたらしい。彼の前にある皿や器だけが綺麗に空になっていた。
「ふん。こんなのが休息日と言えるか。本当の休息日っていうのは、普段見慣れた顔を見ずに済む場所に行って、思いっきり怠惰に時を過ごせる日のことをいうんだ。シュメールにだって、一年にひと月くらいは休暇があっていいはずだ」
 シュメールにはどうやら休日というものがないらしい。ナイドが不機嫌に、惜しむ様もなくその美しい唇の端を歪めてぼやく。それは彼がいつも口にしている不満だったらしく、ウスルは仲間の不平をあっさりと聞き流した。
「午後から明日の招喚式の段取りを覚えてもらうぞ、アルディ。おまえ、初めての招喚式だろう。よく不安がらずにいられるな」
「えー、なんで不安がんの? 神の導きで次のニンフルサグのシュメールは明日必ずこの神殿に来るんだろ? だったら、歌さえ歌ってもらえれば、俺一人でだって見つけられるぜ。簡単簡単」
「馬鹿か。その簡単なことを勿体つけて、しかも優雅かつ神秘的にやってみせなきゃ、見物人も選ばれなかった候補者たちも納得しないだろーが。おまえ、苦手だろう。優雅、華麗、高貴、荘厳」
 ナイドの厭味に、アルディが言葉を詰まらせ口許を引き結ぶ。食後の腹ごなしとばかりにナイドに飛びかかりかけたアルディの絹の腰帯を掴んで引き止めたのはウスルだった。
「そういうわけで、ナキア。当面の君の仕事はアルディの見張りと食事の相伴だ。そうして君の体重が今の五割も増えたら、次の仕事を頼むことにするよ。アルディはすばしこいから、見失わないように頑張ってくれ」
 ウスルに捕まえられて手足をばたばたさせているアルディを、ナキアはぽかんとしながら視界に入れていた。
 そんな"仕事"があるものだろうか。ナキアの知っている"仕事"とは、炎天下、汗みずくになって土を堀り、水を運び、泥をこねる重労働だけだった。昨日までナキアが暮らしていた村では、いちばん優雅な身分の地主の娘や奥方でさえ、毎日水汲みのために村と河の間を幾度も往復していた。子供のお守りなどというものは、仕事ではなくお遊びではないか。
「大丈夫ですよ、ナキアさん。僕もお手伝いしますから。アルディはね、確かにすばしこいけど、食べ物の匂いのするところで待ってれば、必ず捕まえられるの」
 呆然としているナキアを不安がっていると勘違いしたらしいナディンが、にっこり笑って励ましの言葉をかけてよこす。
 ナキアは思わず両の肩で大きく息をついた。






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