第五章  シュメールの恋





 朝の宣誓式で、ナキアは初めて、バーニや行政官たちの前で聖歌を独唱した。ナイドの選んでくれた若草色の長衣をまとって。
 国土の平和、人々の幸福、王の健康――願いをこめて、ナキアは歌った。ほんの半月前まで歌を覚えられずにナディンを泣かせていたにしては上手くできたと自分では思い、イルラやウスルたちも満足しているようだった。バーニに従う黒い長衣の行政官たちも赤い長衣の神官たちも、国土始まって以来の少女のシュメールの熱唱に聞きほれているのがわかった。
 だが、人々の賛辞より何より、ナキアは自分に注がれるバーニの眼差しが嬉しかったのである。
「素晴らしかったよ、ナキア。自分のことのように誇らしかった。なにしろ君は、私が見つけてきたシュメールだからね」
 いつもは宣誓式が終わると行政官たちと共に神域を出ていくバーニが、その日は一人神域に残ってナキアの歌を褒めてくれた。
「ありがとうございます。みんなバー…陛下のおかげです」
「君自身の努力と、君の仲間たちの おかげだよ。ナディンとナイドに特訓を受けたんだって? まさに飴と鞭だな」
「はい! あ…いえ、あの、そんなには…」
 バーニの言う通りだったので、ナキアは元気よく返事をし、バーニの言う通りだったので、ナキアは言葉を濁した。
「鞭のいるところでだと、本音も言えねーってさ。ナイドー、俺たち先に出てよーぜー」
 アルディが鞭にかこつけて、そわそわした口調で言う。彼の心は既に朝食の食卓に飛んでいるらしかった。アルディがみんなをせっついて朝食に向かうと、神域にはナキアとバーニだけが残された。
「本当のことを言うとね、最初のうちは心配していたんだ。イルラたちから報告を聞いてはいたんだが、ナディンは甘すぎる飴のようだったから」
 飴と鞭がいなくなったのを幸い、本音を語りだしたのはバーニの方だった。ナキアがつい笑い返してしまう。
「でも、優しいのも度が過ぎると鞭になってきて、いつまでもなまけててナディンを困らせるわけにもいかないな…って気になってきちゃうから…」
「優しいのも度が過ぎると鞭になる…か…。その通りかもしれないな」
 ふいにバーニの眉が曇る。
 ナキアが首をかしげると、彼はすぐに元の笑顔になった。
「恋の歌の話を聞いたよ。子守歌の代わりに恋の歌を歌ってみてはと提案したんだって? ウスルがひどく受けていたが」
「あ…あれは…。別に私、笑わそうとして言ったわけじゃ……わけではないんです」
 バーニの耳には、自分がナイドのことでしでかしてしまった失敗の件も届いているのだろうかと、ナキアは不安になった。無思慮で思いやりのない人間だとバーニに思われることは、ナキアには堪えられそうになかったのだ。
「ナディンがその歌をとても気に入っていると聞いたが、そんなに綺麗な曲なのかい?」
 だが、バーニの眼差しは初めて出会った時と同じく、屈託がなく優しい。
(安心してていい…よね? イルラやウスルは他人のこと悪く言う人じゃないもの)
 そう考えて、ナキアは気を取り直した。
「歌ってみせま…お聞かせしましょうか? 聖歌はまだまだだけど、それなら一日の長があるから、ナディンより上手く歌えると思…歌えるかもしれません」
 実は聖歌よりも地理よりも歴史よりも、ナキアが苦手なのは敬語の方なのだという報告も、バーニはちゃんと受けていた。必死になって使い慣れない敬語を紡ぎだそうとするナキアに苦笑しつつ、バーニは彼女に尋ねた。
「それは是非…と言いたいところだが、それを聞いたら、私は君に恋してしまうのかい?」
「えっ!?」
 途端にナキアが真っ赤になる。
「まっ…まさかっ! わっ、私、こんなにみっともなくて、たとえどんなに心をこめて歌ったって、そんなことになったりするはずが…!」
 どもりながら派手に赤面するナキアに、バーニは瞳を見開いた。色々な意味で、彼は驚きに支配されたのである。だが、彼は、万民の前で王として振る舞うことに慣れていた。 努めて平静を装い、自然な動作で、神域から中庭に続く扉を開ける。
「人を美しく見せるのは、美しい心だけです――というのはナディンの口癖だったな。ナキア、君、鏡を見てごらん」
「え…?」
 唐突としか言いようのない王の言葉のせいでその場に突っ立ってしまったナキアを残し、バーニは後を振り返らずに神域を出ていった。






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