ナキアがニンフルサグのシュメールに選ばれた第二【アヤル】の月のひと月後、第三【シバン】の月の月例祭はナキアの披露目式になった。

 一ヵ月前、大河【ブラヌン】のような群衆の中から拾いあげられた一かけらの薄汚れた石ころの奇跡のような変化と成長に、民衆は驚いた様子を全く見せなかった。それは、この都の住人には見慣れた変化だったのかもしれない。あるいは、神に選ばれたシュメールなら当然のことと思っていたのかもしれない。
 しかし、国始まって以来の少女のシュメールの歌は、月例祭に集った大勢の民に熱狂的に受け入れられた。
 神の望む善き心をもって、どんな苦難にも絶望にも挫けず希望を抱いて生きていれば、道はきっと開かれる。神はきっと見ていてくれる――そう、ナキアは歌った。それは、その時のナキアの偽らざる気持ちだった。
 神の望む善き心を失わずにいれば、この世に叶わぬことなど何一つないのではないかとさえ、その時ナキアは心底から思っていたのだ。



「――不躾なことをきくようだが…ナキア。君の体のどこかにトレニアの花の形の痣はあるかい?」
 ナキアがイルラに尋ねられたのは、ナキアの披露目式が無事に終わった、その夜のことだった。
 一日の仕事を終え眠りに就く前、特に取り決めがあるわけでもないのに、シュメールは外庭の奥まったところにある石卓に一人二人とやってくる。そうして何をするでもなく時を過ごし、仲間たちが全員揃うと、仲間の顔を見て安心したかのように、彼等はそれぞれの寝室に向かうのだ。それがシュメールたちの日課だった。
 ちょうど六人が掛けられる大きさの石の卓。 卓を囲むように四隅に灯された橙色の灯。昼間の民衆の熱狂が嘘のように静まりかえった夜の静寂の中、五人の仲間たちが沈痛な眼差しをナキアに注いでいた。否、ナイドはそっぽをむき、ナディンは俯いていた。
「そんなのないけど…それがどうかしたの?」
 ナキアの返答にイルラが肩を落とす。彼の目配せを受けて口を開いたのはウスルだった。
「ナキア。シュメールには決してしてはならないことが二つある。一つは悪意をもって歌を歌うこと。もう一つは恋人の前で歌を歌うこと。前者の理由は言うまでもないが、後者の理由はわかるか?」
「え? あ、え…と、シュメールの歌には人の意思を変える力があるわけだから…」
「そう。相手の心を、その意思を無視して、自分に向けさせる力があるんだ、シュメールの歌には」
「……」
 問われることに問われるままに答えながら、ナキアはウスルが何を言わんとしているのかを測りかねていた。自分の披露目式が無事に済んでほっとしていたナキアは、今夜のこの会合は和やかな祝いの席、あるいは反省会になるのだろうと思うともなく思っていた。それが――どうも予想していたのとは違う雰囲気がナキアの仲間たちを包んでいる。
「そして我々シュメールの職務は、王と我等が国土【キ・エン・ギ】の民を、神の望む善き方向に導くことだ。我々が民の前では月に一度しか歌わずに いるのに、王と行政官たちには毎日歌を聞かせているのは、彼等が善政を敷くことが民の幸福に繋がっていることを知っているからだ。王の善き心を守ることが、王の前で歌を歌うことが、我々シュメールの最も重要な義務なんだよ」
「ええ、わかるわ。私、頑張るわ。頑張ってるつもりよ?」
 ウスルの話を聞いているうちに、ナキアは、今日の披露目式で自分が何か致命的な失敗を犯してしまったのではないかと不安になってきた。しかし、それが何なのか、思い当たることがない。今日の月例祭、ナキアは万事イルラやウスルに教えられた通りにできたつもりだったし、バーニも満足した様子を見せていたのだ。
「自覚できてないんだ、こいつは」
 ナイドが横から口を挟み、そのせいでウスルの表情はますます険しくなった。ウスルは、気づかずにいれば幸福でいられるナキアに真実を気づかせ仲間を傷つけるという重い荷まで背負ったことになる。
「…ナキア。我々シュメールの力は一代限りのもので、その力もいつかは神に返上するものだということは教えたね」
「ええ。王や祖国と同じくらい大切な人に出会った時、シュメールは神に力を返上して、神は別の人間にシュメールの力を授ける…んでしょ?」
「その通りだ。王だけが世襲で、王だけはエンキ神に授けられた王の地位を自分の子に譲ることができる」
「え…ええ」
 戸惑いつつも、ナキアは頷いた。三年前にバーニの父王が亡くなり、バーニが王の地位に就いたことは、ナキアも聞いていた。
「王だけが世襲なのは、王の人生すべてが神に支配されているからだ。その代償として、王は神から神の代理人たる権力を授かっている。つまり――」
 さすがにウスルが言い澱む。長く深く吐息して、意を決したように彼は言葉を継いだ。
「王の花嫁――つまり、次代の王の母親も神が決めるんだよ。その方の体のどこかにはトレニアの花の形をした痣があって、我々はその方を夏菫【なつすみれ】の御方と呼んでいる。陛下の父君より一年ほど早く亡くなった陛下の母君にも額にトレニアの花の痣があった」
「……!」
 ナキアはやっと、ウスルが何を言わんとしているのかを理解した。バーニには既に決まった人がいる――そう、彼は言っているのだ。 ナキアは慄然とした。何がそんなに大きな衝撃を自分にもたらしたのかはわからなかったが、それは確かにナキアの全身を凍りつかせるほどの衝撃だった。
 バーニの側に寄り添う美しい女性――その光景を思い描くだけで、ナキアは喉の奥に何かが詰まったような胸苦しさを覚え、その痛みはナキアに瞬きさえ忘れさせた。
(私……これは恋…だったの? 私、バーニに恋してたの? 私がバーニに感じてたのは、飢え死にしそうな境遇から救いだしてもらったことへの感謝じゃなく――これは恋なの? 私はもう"あの瞬間"を通りすぎてたの?)
「そ…そーなんだ。あ……でも、神様が選んだ人なら、きっと綺麗で優しくて高貴なお姫様なんでしょうね。みんな、会ったことあるの?」
 何を言っているのだろう――とナキアは思った。自分は何を言っているのだろう、と。 大声をあげて泣き叫びたいのに、そうすれば、その間だけでも何も考えずにいられるに違いないのに――。
「陛下は陛下の夏菫の御方にはまだ巡り会っていらっしゃらない。我々もまだその御方を知らない」
「な…なぁんだ。私、早くその人に会ってみたいなー。きっととっても綺麗な人なんでしょうね!」
 そんな心にもないことを言って平静を装ってしまうのはなぜなのだろう。無様に泣きわめくところを仲間に見られたくないという自尊心のせいなのだろうか。つい一月前まで薄汚れた恰好で大河の岸を住処としていた自分にも、自尊心などというものの持ち合わせがあったのだろうか――。
 ナキアは膝の上で二つの拳を握りしめた。
 その拳にぽたぽたと涙の雫が落ち、そして飛び散る。
「ナ…ナキアさん……」
 俯いたナキアの耳に、ナディンの声が聞こえた。泣きそうな声――聞く者の耳に悲痛に響く声だった。
(隠そうとしなくても……みんなは知ってるんだ。だから、急にこんな話を始めたんだ。私だけ…私だけが、自分の気持ちに気づかずにいたんだ……)
 そう思うとナキアは、既に泣いているのに、また泣きたくなってきてしまったのである。自身の恋心にも気づかずにいた愚かさが、彼女をひどくみじめにした。
「こ…こんなことなら…こんな思いをするくらいなら、私、一ヶ月前大河のほとりで死んでた方がずっとましだった…っ!!」
 自分を包む仲間たちの同情の重さに耐えきれず、ナキアは叫んでいた。その叫びが鋭い刃物のように仲間たちの心を傷つけるのが、その痛みが、ナキアにはわかった。仲間たちがナキアのために悲しんでいることが、しかし、ナキアを一層傷つけたのである。
「みんなして……みんなして、そんな悲しそうな顔して、でも、諦めろって言うんでしょっ! 神様の意思に逆らったら、我等が国土にどんな災いが降りかかるかもしれないんだものね! わかってるわよ、それくらい! 私だって馬鹿じゃないのよ、それくらいちゃ んとわかってるんだからっ!!」
 そうやって、そんなことを言って、自分のために悲しんでくれている人たちをますます悲しませて、それでいったい何になるのだろうと、ナキアは思っていた。自分も仲間たちも一層傷つくだけだとわかっていて、だが、ナキアは仲間たちを傷つけるのを止められなかった。
 掛けていた椅子から立ちあがり悲しそうな瞳でナキアを見つめていたナディンが、ふいに大人びた表情になる。ナキアの激昂を全身で受けとめ、彼は静かな声で言った。
「諦めろって言われたら、諦められるの? 人にやめろと言われて思い切ることができるほどの恋なら、僕たちは――僕は何も言わないよ」
「…!」
 それは、いつも優しい――いつも誰よりもナキアに優しくしてくれていたあのナディンの言う言葉だろうか。
 ナキアは一瞬気後れした。僅かな間をおいてから、ナディンの抑揚のない言葉に抗うように叫ぶ。
「あ…諦められないって言ったら! そう言ったら、どうしてくれるの!! 私に、何をしてくれるっていうのっ!」
 ナキアとは対照的に、ナディンは静かだった。静かに、ナキアを見詰め返していた。
「忠告を一つ」
「忠告?」
 今、この場にいるのはナディンではない。少なくとも、ナキアの知っているナディンではなかった。今ナキアを静かに見詰めているナディンは、ナイドより、ウスルより、イルラより、大人びた目をしていた。
「報われない思いっていうのは、とても辛いよ。苦しくて泣きたくて、いっそ死んでしまいたいって思って、そんなに苦しんでいるナキアさんの気持ちも知らず、多分陛下はナキアさんに優しく接する。でも、陛下が優しければ優しいほど、ナキアさんは傷つくんだ」
「……」
 ナキアには、それは確実な予言のように思われた。バーニが優しければその分だけ自分は傷つく。明日からの自分はおそらく――否、確実に――ナディンの言う通りの苦しみを耐えなければならないのだろうと、ナキアは思った。
「耐えられないなら、僕たちにぶつけて。僕たちはナキアさんの仲間だから、ナキアさんの心を安らげるためにできるだけのことをするよ」
「できるだけのことって…何ができるのよ!」
 口調だけは挑むようだったが、既にナキアはナディンの静けさに圧倒されていた。そのナディンの表情が、優しく柔らかい普段のそれに変わる。
「抱きしめて、髪を撫でて、子守歌を歌ってあげるよ」
 ふいにナキアは、ナイドがナディンに甘えたがるわけがわかったような気がしたのである。全身から力が抜け、ナキアはいつのまにか椅子から滑り落ちて下草の上にへたりこんでいた。
 つい先程までの激情の涙ではない涙がぽろぽろと膝に落ち、ナキアは幼い子供のようにしゃくりあげていた。
「だって、私、生まれて初めて人に優しくしてもらったの」
「うん」
「それまでは親なしっ子で、みんなと違う色の髪をした不吉な子で、村の厄介者で、でも、あんなに綺麗で優しい人が私に……」
「うん…」
「上手に歌を歌えばバーニが褒めてくれて、だから私一生懸命練習したの」
「うん、知ってるよ」
 ナディンは、その言葉通り、ナキアの肩を抱きしめて髪を撫でてくれていた。いつのまにか他の四人もナキアの周りに膝をつき、ナキアと同じ高みからナキアを見詰めてくれている。
「ごめんなさい…。陛下にはナキアさんの気持ちは……陛下はそれでなくても重責を抱えてらっしゃって、だから…」
「平気よ…。私、そこまで馬鹿じゃない。私のことでバーニを困らせようなんて思わない」
「ごめんね…何もしてあげられなくて…」
 ナディンの手や声は、ナキアの心を包みこむように優しく、ひどく心地良かった。ずっとこうしていれば、今自分を責め苛んでいるやるせなさも、以前の自分のものだった孤独も辛さも、飢える恐怖すら癒されてしまうのではないかと思うほどに。
 それが、その心地良さが、ナディンだけのものではなく、仲間たち全員の思い遣りに包まれているからなのだとナキアが気づくのに、さほど時間はかからなかった。
 もう、この心地良さから離れられない。もう、この優しい仲間たちから離れられない。
 ナキアはそんな自分を、ナディンの体温の中で苦しいほど切なく自覚した。






[next]