それからナキアは努めて気丈に振る舞った。 毎日の宣誓式も、不定期にある他都市の王の信任式も、シュメールの一員として恥ずかしくないように務めあげた。歴史を学ぶこと、文字を覚えること、聖歌を修得すること、苦手だった敬語すら不自然ではなく使いこなせるほどの上達をみせた。シュメールの務めに没頭することで、ナキアは苦しい恋を忘れようとし、実際それはある程度の効果があった。 ナディンの予言した通り、ナキアを最も苦しめたのはバーニの優しい言葉と眼差しだったが、それもなんとか笑顔で受けとめることができていた。 今現実に夏菫の御方がバーニの傍らにいないから耐えられたのだったかもしれない。だが、それよりも何よりもナキアを支えてくれたのは、仲間たちの存在だった。 バーニには伝えることすらできないナキアの心を、仲間たちは知っていてくれる。ナキアが苦しみに耐えていることを知っていてくれる仲間がいる――それだけでも人の心はずいぶん楽になるものだということを、ナキアは初めて知った。 ナキアが沈んでいると、いつのまにかウスルの手が肩に置かれている。アルディが桃の実を差しだし、イルラが『君は強いね』と声をかけてくる。ナディンは言うに及ばず、あのナイドでさえも、素っ気ない優しさを垣間見せてくれていた。 ナキアは、おちおち鬱状態になってもいられなかったのである。 「落ちこんでいる時は体を動かすに限る。シュメールは休息日もなしに毎日働きづめで、適当に遊んで憂さ晴らしをすることもできないんだからな」 と言って、ナイドが剣を持ちだしてきた時など、ナキアは自分の目と耳を疑ってしまったのである。 いつもきっちり白の内着に踝まである濃い色の長い上衣を重ね着し、その裾を乱したこともないナイドが、膝上丈の短衣を着て大振りの剣を持ちすっくと立ったその姿を、最初ナキアは月神の座のシュメールだとは思わないかった。 ナディンに手渡された紫色の紐で、ナイドがその長い銀髪を一つにまとめる。 初めて見るナイドの腕と脚はしなやかな筋肉をまとっていて、それは、女神というよりは美しく精悍な闘神に見えた。 「ナ…ナイドって、あんな顔してて、剣なんか使えるの?」 思わず知らず二、三歩後ずさって、ナキアは側にいたアルディに小声で尋ねた。相も変わらず梨の実にかぶりついていたアルディが、肩をすくめて小さく頷く。 「シュメールの中じゃあ一番強いぜ。王宮中でも、ナイドと渡りあえるのは陛下ぐらいのもんさ。ま、ナディンとやる時だけは、わざと負けなんだか何なんだか、いつもあっさり負けちまうけど」 「へ…え、意外ー!」 驚き呆れてしまったナキアだったが、確かにナイドの言う通り、剣を持って体を動かすのはなかなかに爽快なことだった。 「ナキア、おまえ、イルラより才能あるぞ」 と、初めてナイドに褒めてもらうこともできた。 そんなふうにナキアは、バーニと接するたびに口を開く傷口を、仲間たちに癒してもらう日々を過ごすことになったのである。その傷口が完全に癒されることはなかったが、ナキアは不幸ではなかった。以前の自分に戻りたいとは決して思わなかった。この優しい仲間たちに巡り会えない人生など想像もしたくない。ナキアは心底からそう思った。 「でも、なんだか変だなぁ…」 神域の裏手にある剣技場は、土埃がひどかった。猪突猛進で勢いが余ってしまっている感のあるアルディと、長剣を持つのも重そうにしているナディンの、あまり華麗とは言い難い立ち合いを眺めながら、ナキアはぽつりと呟いた。 彼女の横で、二人の後輩の無様さを苦虫を噛み潰す思いで見ているようだったナイドが、忌ま忌ましげに頷く。 「全く、あの二人の立ち合いは到底人には見せられん。シュメールの名折れだ」 「あ、ううん、そうじゃなくって…」 「?」 ナイドが下目使いにちらりとナキアを見やる。ナキアはその視線を捉えて、自嘲めいた笑みを浮かべた。 「私が村にいた時、村の人たちは誰も私に優しくしてくれなかった。村人たちは、私を蔑むことで一致団結してるみたいなとこがあって…。でも、私はそれが当たり前だと思ってたのよ。でも、ここにはいい人しかいない。それって変だと思う」 カシャンと音がして、ナディンの剣がアルディの剣に弾き飛ばされる。地面に突き刺さった自分の剣を見て、ナディンは両手をあげてアルディに降参した。 「暮らしに困らないから? 毎日たくさん食べられて、柔らかい寝台で眠れて、それで人っていい人になれるもの? 違うわよね。村の地主様は、そりゃあ冷酷な人だった。あなたたち、どうしてそんなにいい人なの」 ナキアとナイドのもとに、息を弾ませたナディンたちが駆け寄ってくる。素早く視線を走らせてナディンが怪我をしていないことを確かめてから、ナイドはつまらなさそうに言った。 「俺は"いい人"なんかじゃないぞ。おまえを見るたびいつも、馬鹿な女だと思っている。あんな、何もかもを神に絡めとられているような男を好きになるなんて、本当におまえは馬鹿だ。周りを見回せば、もっと手頃ないい男がいくらでもいるだろう。イルラなんて、特に手頃だ。あいつは根本的に気性が穏やかで、泣いている女には優しくせずにいられない奴だし、ウスルも、少々理屈っぽいところはあるが、女は一生に一人だけで十分と考えてる野郎だ。アルディもな、年下だが、多分シュメールの中で一番生活力があるぞ。あと四、五年もすれば、滅多なことじゃへこたれない大らかないい男になるはずだ。そういうのが周りにいくらでもゴロゴロ転がっているっていうのに、おまえときたら……」 「ナイド!」 ナキアたちが何を話しているのかを察したらしく、ナディンが咎めるようにナイドの名を呼ぶ。ナイドはなだめるようにナディンの頭に手を置き、言葉を続けた。 「都合がいいからって惚れられるもんじゃないってことはわかってる。しかし、普通の…利口な人間は、無意識のうちにそういう計算をするもんだ。おまえは馬鹿なんだよ。本当に救いようがない」 「ナイド! なんてこと言うの!」 ナディンがまたナイドの名を呼ぶ。 ナイドはそれで肩をすくめてしまった。 ナディンを"お勧め"しないところがナイドらしいと思い、ナキアは微かに苦笑した。 「ナディン、いいの。でも、ほら、変でしょ。私のことなんか放っておけばいいのに、結局あなたもいい人で…」 ナイドを睨みつけていたナディンが、ふいに気弱そうに眉根を寄せる。 「不安なんですか? 僕たちがほんとは"いい人"の振りをしている悪い人間なんじゃないか…って?」 「ううん、そうじゃないの。私、みんなを信じてる。不思議なくらいに信じられる。ただ――」 「ただ?」 不安そうにしているのは、ナキアよりナディンの方だった。見あげるようなその眼差しに、ナキアが切ない気分になる。 「いい人ばっかりだと、誰かが辛い目にあってるんじゃないかって気になるの。みんなが私に優しくしてくれて、それで私は楽になれてるけど、その分、ナディンたちに辛いのを肩代わりさせてるみたいな気がして、なんだか――」 ナキアの言葉は、ナディンを安心させたようだった。 「僕たち、少しはナキアさんの力になれてるんですね。よかった…」 呟くようにそう言って、ナディンがふわりと微笑む。そして、まるで照れたような素振りでくるりと回れ右をし、アルディと一緒に剣を片付けに走っていってしまった。 「……特にナディンって不思議よね。あんなに…まるで、誰のことも許してるみたいで、他人の悪意なんか知らないみたいな…。ナディンって、ほんとは逆に物凄く辛い目にあったことがあって、だから、ああいうふうにしてられるんじゃないのかしら」 ナディンの背中に向けたナキアの一人言が、月神の座のシュメールに聞こえてしまったらしい。駆けていくナディンの後ろ姿を目を細めて見送っていたナイドが、突然周囲の空気を氷のように冷たく凍りつかせる。 彼は、いかにも彼らしく、だがどこか平生のそれとは異なる口調で、突き放すように言った。 「おまえは存外頭がいい。認識を改めることにしよう」 その冷やかな感触に弾かれたようにナキアが顔をあげた時、ナイドは既にナディンの後を追って剣技場の外に歩きだしていた。 |