シュメールになって神殿の東に住むことを許されたナイドが最初にしたのは、ナディンを捜すことだった。聖歌を修得しようという志など、彼には全くなかった。
 神殿内の案内役を任じられたイルラとウスルを早々にまいて、ナイドは神域、東西の居住区、北の共有施設区と、ナディンを捜しまわったのである。神殿王宮の広さにいらいらしながら、ナイドが神殿の北の文書庫から外庭に足を踏み入れた時だった。
「これでおまえの罪が消えるわけではないんだぞ」
 先日ナディンに冷たい一瞥を投げて立ち去ったあの男の低い声が庭の奥まった場所から聞こえてきた。渡り廊下にナイドが立っていることにも気づかず、急ぎ足でその場を去って行く。
 嫌な予感に襲われつつ、ナイドはバーニと入れ違いに庭の奥に分け入った。そして、彼はそこで信じ難いものを見ることになったのである。
「おま…ナディン…!」
 ナディンは陽の当たらない大きなナツメ椰子の根元にうつ伏せに倒れていた。その背中には無数の傷痕があり、中には血を吹きだしているものもある。
「おまえ……どういうことだ、これは!」
 傷に触れないように抱き起こしたナディンの頬には幾筋もの涙の跡があり、その目は涙のせいでひどく赤い。まるで血の涙を流しているかのようだった。目は開かれているのだが、意識があるのかどうかさえ見極められないほど虚ろな眼差しが宙に向けられている。
「おい、ナディン! ナディン、おまえ、正気か!? 俺がわかるかっ!?」
 幾度も名前を呼ばれているうちに、やっとナディンの瞳の焦点が一点に結ばれ始める。
 自分の名を呼んでいるのが誰なのかを知ると、ナディンはふっと微笑んだ。
「…女神様…。会いに来てくださったの…」
「馬鹿、まだそんな寝惚けたことを言ってるのか! 俺がわかってるのか? 正気なのかっ!?」
ナイドの怒鳴り声に、ナディンはこくりと頷いた。
「僕の女神様は男の人で、とても綺麗…。お名前、まだ伺ってませんでした…」
 どうやらナディンの正気は保たれているらしい。ナイドはほっと息をついた。
「ナイドだよ。おまえ、立てるか? 大丈夫か?」
「はい。平気です」
 平気なのは返事ばかりのナディンを、ナイドは自分の腕に座らせる形で抱きあげた。
「俺の首に腕をまわして掴まっていろ。医者はどこだ? これだけでかい宮殿なんだ、医者くらいどっかにいるんだろ?」
 脇に放り投げられていた空色の短衣でナディンの体を覆いながら、半ば怒鳴りつけるようにナイドが尋ねると、ナディンは横に首を振った。
「お医者様は怖いから嫌。放っておけば治ります」
「そういう問題じゃないだろう! 痛みは取れるかもしれないが、ちゃんと手当てしないと跡が残るかもしれない!」
「誰にも見せなければ、そんなの無いのと同じです」
「……」
 泣きはらした目でそう言い切るナディンの胸中が、ナイドにはわからなかった。自分の不注意で躓いて転んでも、痛い痛いと泣き叫んで見せるのがこの年頃の子供である。そんなやかましい子供などナイドは大嫌いだったが、その心理は彼にも理解できないものではなかった。
 だがナディンは転んだことも――否、転ばされたことも、その痛みも無いものにしてしまおうとしている。そんなナディンが、ナイドには理解できなかった。
「無いと同じになどなるか! 俺は見てしまったんだし、もし俺が見ていなかったとしても、おまえ自身が知ってることだろう! おまえ、あのオニーサマとやらを庇っているのか? さっきの青い服の奴がおまえの兄貴なんだろう? いったいどういうつもりなんだ、こんな小さな子供に!」
 ナイドの怒りの激しさに間近で触れてしまったせいか、ナディンは身を竦ませ、ナイドの首にまわしていた左手の指先に力をこめた。
「どうしてそんなことを言うの。あれはお兄様じゃないの。お兄様はこんなことしないの。お兄様は僕を大好きだって言って、抱きしめてキスしてくださるの…!」
 せっかく乾きかけていた瞳に、また涙が滲んでくる。
 ここに至って、ナイドにはおぼろげにわかってきた。ナディンは残酷な兄を庇っているのではなく、兄の残酷さを認めまいとしているのだと。
 他人の蔑みや冷酷への憎悪と反発を糧にして生きてきたナイドとは両極の位置にナディンはいるのだ。しかし、『それは逃げだ』と言って糾弾するには、ナディンはあまりに幼すぎた。
「そうか…。あれはお兄様じゃないのか…」
 ナイドの呟きで、自分の主張が容れられたと思ったのか、ナディンは笑みを零した。
「でも、手当てはしよう。な、ナディン。俺が心配だから。医者には猫が背中に入って暴れたとでも言っておけばいい」
 兄の残酷を認めずに済むのなら、どんな見え透いた嘘でもナディンは受け入れられるらしい。彼は今度は素直にこくりと頷いた。
「北の建物の東側にお医者様の診療室があるの」
「北の建物、だな」
 ナイドはナディンを抱きかかえたまま、彼の指し示した方に向かって歩きだした。


 外庭から北の共有施設区に続く渡り廊下の両脇には、背の高いナツメ椰子の木が等間隔に植えられていて、緑色の屋根を作っている。木漏れ陽がレンガの床に波の重なりのような濃淡のある影を落としていた。
「ナイドにはお兄様はいらっしゃらないの?」
 木漏れ陽を受けるナイドの横顔に見入っていたナディンが、ふいにあどけなく尋ねてくる。
「俺は天涯孤独だよ。生まれた時から一人きりだ」
 答えが素っ気なくなったのは、それがナディンにとっても自分自身にとっても触れない方がよいことのような気がしたからだった。
 しかし、ナディンには、それはとても大事なことだったらしい。
「お父様もお母様もいらっしゃらないの」
「顔も知らないな」
「……」
 ナイドの返事に、ナディンが瞳を見開いて息を飲む。それからナディンは、小さな蝶々を捕まえる時のようにそっとナイドの首に両手をまわし、その頬をナイドの頬に寄せてきた。
「かわいそうに……寂しかったでしょう…」
「……」
 自分より十も年下の子供に、しかもこの状況で同情されるのは、ナイドには遺憾の極みだった。今、自分がどれほど"かわいそう"な子供なのかをナディンはわかっているのだろうか。
「殴ったり蹴ったりする兄なら、いない方がましだ」
 ナイドは、ナディンの柔らかい頬と手の感触に逆らうようにそう言った。ナディンがナイドの顔を覗きこみ、諭すように答える。
「お兄様はそんなことはなさらないの。抱きしめてキスしてくださるの。僕、ナイドのお兄様になってあげます。僕にはもうお兄様がいるから、僕がナイドのお兄様になるの」
 この子供は自分の言っている言葉の意味がちゃんと理解できていないのだと、ナイドは思った。思いはしたのだが、彼はナディンの提案を拒絶する気にはなれなかった。頬に添えられたナディンの小さな手の感触が、暖かさが、あまりに心地良くて。
「誰かにいじめられたら、僕に言ってね。僕がナイドを守ってあげます」
「……」
 孤独な者同士で傷を舐め合うなど御免だと考えないでもなかった。だというのに、ナイドの口を突いて出たのは、彼自身思ってもいなかった言葉だった。
「俺を…? 守ってくれるのか?」
「はい」
 ナディンは事もなげに頷く。
「ん、とね。お約束しましょう。お約束、知ってる?」
「お約束?」
 ナイドが反問すると、ナディンは得意そうにこくこく首を振った。
「僕、お母様が神様のところにお出掛けなさった時、お約束したの。夏菫の御方に会ってはいけません。お母様が僕を愛してくださっていたことを決して忘れません…って。あのね、ナイドの手をこうして包んで、その手にキスするの。このお約束は一生守らなきゃいけないの」
 ナイドの左手を両手で包み、ナディンがその指先に唇を寄せる。
「はい。これで僕はナイドのお兄様です」
 そう言ってにこりと微笑むナディンに、ナイドは目を細めた。翳りを感じさせないその微笑が、かえってナイドを切ない気分にする。
 この愛苦しい少年に暴力を振るえる人間の気がしれない――ナイドは心底からそう思った。そして、ナディンに本当の笑顔を与えるためにはどうしたらよいのかと、彼は考え始めたのである。
 誰かのために何かをしてやりたいと思うのは、生まれて初めてのことだった。






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