「バーニ様に聞こえるところで歌を歌ったらしいね」 金輪際バーニに聖歌など聞かせてやるまいと、ナイドが決意したばかりの夜だった。いちばん年かさのイナンナ神座のシュメールが、咎める色もなくナイドを咎めてきたのは。 「王子に聖歌を聞かせてはいけないのだと聞いていなかったかな? イルラ、教えていなかったのかい?」 「聞いてなかったな、そんなことは」 「…教えてませんでした」 ナイドとイルラの返答に、イナンナの座のシュメールは嘆息して肩を落とした。彼は、初めてナイドがナディンに会った日に、ナディンの手を引いてナイドの前からナディンを連れていった、あのシュメールだった。ナディンの母の死にも立ち会っている。 「では覚えておいてくれ。次代の王になる者に聖歌を聞かせてはならない。王になるまでは、バーニ様にシュメールの力の影響を及ぼしてはならないんだ」 「へー、そりゃまたどーゆーわけで? あいつは国中でいちばんシュメールの歌を聞かせてやるべき奴じゃないのか? 冷酷で傲慢で狡猾で最低の最悪、下の下の下の人間だ。あの男が王になったその日のうちに、神が大洪水を起こして我等が国土を滅ぼし尽くすことに、俺は全財産賭けてもいいぜ」 もう『ナディンに優しくしろ』などという歌を歌うつもりは毛ほどもなかったが、ナイドは反抗的な口調で大先輩のシュメールに口答えした。 シュメールたちは気づいていたはずである。ナディンに加えられる暴力はともかく、バーニが自分の弟に冷たく接していることくらいは。この神殿王宮内でシュメールだけが、ナディンの素性を知っているのだから。 だのに、なぜ彼等は手をこまねいて、ナディンを救ってやろうとしなかったのだろう。それがナイドには不可解だった。 暗に責められていることを察したのか、イナンナのシュメールが暗い目になって俯く。代わってウトゥ神座のシュメール――ナイドに招喚式に来いと告げた、あのシュメールだった――が、先を引き継いだ。 「エタナを責めるなよ。気が弱いんだから。つまり、それはだな。こういう言い方はしたくないが……我等が国土の王は、いわばシュメールの――いや、神の、だな――操り人形なんだ。王になった日から、王は毎日毎日シュメールの歌を聞かされて、国のため民のために神の意思を汲み、善きことしかできなくなる。悪意とか残酷とか無気力とかそういった負【ふ】の感情を、王の権力を得た者が抱くことは許されない。だが、普通の人間がそういう感情に支配されることを知らなければ、王は自分が統治している者たちの気持ちを理解することもできない。次代の王は、だから、王子でいるうちにそれらのものの存在を知っておかなければならないんだ。そして、王子のうちに知った負の領域が広ければ広いほど、深ければ深いほど、彼が王になった時の後悔もまた広く深く、それだけ王の政治と慈悲には光が増す。だからなのだと思うが、神は人の数倍もの邪悪をエリドゥの王位継承者に与えるようだぞ」 「な…」 事もなげに言ってのけるウトゥ神座のシュメール――ネルガルといった――に、ナイドは目を剥いた。静かな夜の庭に張り出した露台に怒声を響かせる。 「それで…それでナディンがどんなに傷ついても構わないというのかっ!! あの子が何をしたっ! そんな仕打ちにも耐えなければならない、どんな罪を犯したというんだっ!!」 卓に叩きつけた拳のせいではなく、その声のせいで、陶器の器が揺れる。 ネルガルはナイドを見ずに、 「もう気づいているんだろう? ナディン様は、神の意思に背いた結合から生まれた御子だ。七年前、急流【イディグナ】の水が氾濫した時、その対応におおわらわで、陛下が三日ほどシュメールの歌を聞かなかったことがあった。その時ぽっかりと陛下の中で悪心が目覚めて……愛する人を――夏菫の御方を――苦しめるために、陛下は夏菫の御方のいちばんの気に入りだった女官に乱暴を働いた。ナディン様はその時の――負【ふ】の時に授かった御子だ」 「だから傷ついても仕方がないと言うのかっ! それが、国土に平和と幸福をもたらすのが務めのシュメールの言いぐさかっ!!」 激昂するナイドに、五人のシュメールは一様に黙りこんだ。 愛の女神の座のシュメールが、ぽつりと呟く。 「シュメールの真の務めは…神々の意思で王を支配することだ。そしてもし神々の手も届かぬほどに負の感情が王を支配した時、王を弑し我等が国土の存続を絶つことなんだよ」 「……!」 咄嗟に反駁の言葉が思いつかずに、ナイドは口許を痙攣させた。 揃いも揃って美しく、揃いも揃って優しげな面差しをしたシュメールたちの無慈悲な言葉。神に支配されているのは、人の心を失っているのは、王よりもこの美しいシュメールたちだと、ナイドは思った。 「あんな小さな子供ひとり救えないシュメールなど、男娼以下だっ。俺はもう御免だぞ。シュメールなんか、たった今やめてやる! 女を作って婚姻の誓いを果たせば、シュメールをやめても死なずに済むんだろう!」 ナイドは元々ナディンのためにシュメールになったようなものなのである。ナディンの力になれないのなら、シュメールでいることに意味はない。長くここに留まって、本当は心優しいのだろうこのシュメールたちに親しみを覚えてしまいたくなかった。 「……」 シュメールたちの眼差しはみな、ナイドを引き止めていた。引き止めるための言葉を探しだせずにいるその眼差しは、ひどく辛そうだった。 しかし、彼等の眼差しを振りきって、ナイドは彼等に背を向けた。 そして。ナイドはその場に五人のシュメールたちよりも哀しい色をしたナディンの瞳を見いだしたのである。 |