回廊にはウスルとアルディが立っていた。二人は外庭の一点を見詰めている。
 そこには、イルラとバーニがいた。
 バーニは長椅子に座りこみ、両手で顔を覆っていた。両肘を膝につき、人生にうちひしがれた老人のように背を丸めて。
「――憎んでなどいない。愛しているんだ。この世に生きているただ一人の肉親だ。清らかで優しい。私のためになら微笑んで殺されていく…。あの子は私のすべてを許してくれている。あの子を――人の悪意を拒絶しなければ生きていけないほどに追い詰めたのは私だ。だが、本当に…本当にいつでも愛していたんだ…!」
 イルラは無言でバーニを見おろしていた。言うべき言葉を見つけられないからではなく、おそらくは、バーニの吐露を聞き、許してやるために。
「初めてナイドの歌を聞いた時、シュメールの聖歌は私を支配するものではなく、解放するものだと感じた。シュメールの歌は私の心を解き放ち、私はあらゆるこだわりを捨ててナディンに優しくしてやることができた。私に向けられたあの子の笑顔は輝くようで、その笑顔は私を幸福にしてくれた。ナイドが私に歌ってくれたのは一度きりで――王に即位した時は、これからはずっとシュメールの歌が私をナディンの優しい兄にしてくれるのだと、心から喜んだ。何の罪もない子をいじめずにはいられなくて、後で一人後悔する苦痛はもう味あわなくていいのだ…と。だが、その途端にナディンはシュメールに選ばれ、私の弟ではなく神のものになってしまった…」
 バーニの肩は震えている。ナキアの見知っている優しく力強い王ではなく、ましてやナディンを打ちすえていた冷酷な兄でもないバーニが、そこにいた。
「ただ一人の弟を神に奪われたことで、私がどれほど寂しい思いをしたか、神ですらご存じではないのかもしれない。だが、そんな気持ちさえ、私はシュメールの歌なしではナディンに伝えることができないんだ…。愛しい者をまっすぐに愛することのできるナイドを、私がどれほど羨んでいたことか…!」
「陛下…」
 イルラは、『神は許してくださいます』という簡単な言葉さえ口の端にのぼらせることができずにいるようだった。庭には、うちひしがれたバーニの心など知らぬげに、鮮やかな緑が明るく陽光を照り返している。
「私は、シュメールの力を借りなければ、愛する者に優しく接することすらできない惨めな男だ。…これが神に選ばれるということなのなら、私は王位も権力も名誉もない、平凡なただの男でいたかった…」
「……」
 イルラの前で悲嘆にくれるバーニのその言葉も、シュメールの歌によって作られた二次的な人格が紡いでいるものなのだろうか。たとえそうなのだとしても、その苦しみは、今実際に彼を責め苛んでいるのである。その嘆きは今の彼の真情から発しているものであり、シュメールの歌がある限り、あるいはシュメールの歌が地上から消え去っても彼の生ある限り、彼を支配し続ける嘆きなのだ。
 ナキアは、今初めて、なぜ自分がシュメールとしてここに存在するのかがわかったような気がした。
 歌で王を支配するためではない。ましてや、王が道を見失った時、その命を絶つためでもない。
(この人を救うために、私は――私たちはここにいるんだ)
 一人の心弱い青年の肩に重くのしかかった後悔と権力、責任と義務。その重荷を少しでも軽くするためにシュメールは存在するのだと、ナキアは信じた。否、ナキアは信じずにはいられなかったのである。
 若く英明な王の、弱く哀しい心を見せつけられたせいで。その弱く哀しい心の苦しみが美しく見えたせいで――。






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