高い天井近くにある窓から射し込む光が、神域の広間を光と影とに二分している。ちょうどその境目に位置するエンキ神像の前で、二人は二人の身長分ほどの距離をおき、無言で互いを見ていた。影の中に白く浮かびあがるナイドは挑戦的にバーニを睨みつけ、光の中に立つバーニは、謝罪を受け付けるつもりもないらしいナイドの頑さに気押された様子で、両の肩を落としている。
「うわ…険悪…」
 アルディにしては本当に小さな声だったのだが、その呟きは静まりかえった神域の隅々まで届いてしまった。
 ナディンが弾かれるように、二人の間に入っていく。それから彼は、覇気も喪失している感のあるバーニに、にこやかな笑みを投げかけた。
「陛下! 僕、陛下にお聞きしたいことがあるんです!」
「な…なんだ?」
 ナディンに背を向けられる形になって険悪さを増したナイドに気づいているのかいないのか、ナディンの声は平生に増して明るかった。
「僕、先日ナキアさんに確かめたんですけど、ナキアさんは変わらず陛下を愛しているそうです。陛下はいかがです?」
「……」
 突然そんな話を持ちかけられるとは思ってもいなかったのだろう。バーニは一瞬息を飲み、それから低く、
「まさか…」
と呟いた。
「まさか、というのはどういう意味です。夏菫の御方以外の人は陛下のお苦しみを理解できないとでも?」
「し…しかし、私は…」
 まるで咎めるように詰問されて戸惑うバーニより、脇で聞いているだけのナキアの方が困惑していた。決して実らない恋。耐えていこうと決意して、心の平静を取り戻しかけたところに、こんな話を蒸し返すのは、細やかな心配りが身上のナディンのすることとも思えない。
「ナディン、やめて」
 ナキアの制止をナディンは無視した。これも平生のナディンらしからぬことである。
 その訳は、しかし、すぐわかった。ナディンは急いでいたのだ。急いで、
「陛下がもしナキアさんのために命を懸けてもいいとおっしゃるなら、僕、ナキアさんを夏菫の御方にする方法を教えてさしあげます」
と言いたかったのだ。
「なに!?」
 バーニとナキアばかりでなく、アルディ、ナイドまでが、驚きに目を見張る。
「神の怒りを買うことなく、ナキアさんと結ばれる方法を教えてさしあげます」
「あ…あるのか、そんな方法が…!?」
 にわかには信じ難いといった表情で、バーニが一歩足を前に踏みだす。
 にこやかにナディンは微笑んだ。
「ええ。僕、意地悪だから、今まで内緒にしていたんです」
 ナディンが意地の悪いことを、しかも人の心に関する重要なことで、するはずがない。その場にいた誰もがそう思っていた。おそらく、それには危険か犠牲が伴うに違いない。だから、ナディンは今まで言いだせずにいたのだろう――とも。
 しかし、バーニは、そんなことに気後れを感じている暇もなかったらしい。
「ど…どうすれば……どうすればいいのだ!? ナディン、教えてくれ!」
 まるで掴みかからんばかりにナディンの肩を揺さぶるバーニに、ナディンは重ねて返答を求めた。
「では、お答えください、陛下。ナキアさんは陛下を愛しているそうです。そして、ナキアさんは陛下を許し、そのお苦しみを癒すための努力を続けるだけの強さと優しさを持っている人です。負の時の陛下を、自分の身をもって庇おうとさえした」
 バーニは唇を引き結び、堅い表情で頷いた。
 ナディンが嘘をつくはずがないということはわかっていても、バーニはやはりまだ、夢のような彼の言葉を信じきることができずにいたのだろう。
 ナキアを夏菫の御方にすることができるということも、ナキアがまだ自分を慕ってくれているということも。
「陛下はナキアさんのために運命に逆らうことができますか? それは本当に命懸けです。いえ、陛下は死も許されていませんから、おそらく生きたままで冥界の苦難を味わうことになります。そして陛下は、何もせずただ安穏と待っていれば、いつか陛下の夏菫の御方に会うことができるでしょう。どちらをお選びになりますか」
 バーニは、ナディンの夢のような提案には苦難が伴うと聞いて、かえって、ナディンの話が嘘ではないのだと信じる気持ちが湧いてきたらしい。彼は僅かに震えを帯びた声で、ナディンに確認を入れた。
「本当に、国や民に神の怒りが及ぶことはないのだな?」
「ええ。陛下お一人が死ぬほどの苦しみを味わうだけです」
「今以上の苦しみなど、この世にはない!!」
 バーニのきっぱりとした"答え"に、ナディンは満足したようだった。
「では、その方法を教えてさしあげます。僕の守護神、愛の女神イナンナに誓って、陛下、どんな苦難にも耐えてくださいね」
「ナ…ナディン! 駄目よ! バーニを危険な目になんか合わせられない!」
 それまで、言葉だけは真剣でも眼差しは柔らかだったナディンが真顔になったのを見て急に恐くなり、ナキアはナディンの手を引っ張った。
「私、バーニが今言ってくれた言葉だけで十分よ! バーニを危険な目になんか合わせたら、私、何のためにバーニを庇ったのかわからないじゃない!」
 ナキアの訴えは、しかし、バーニの声で厳しく遮られてしまった。
「ナキア! 私を愛され、許され、守られ、哀れまれるだけの惨めな男にしないでくれ! 君の強さと勇気に報いる機会を、私に与えてくれ!」
「バーニ…」
 ナキアは、それまで一度も見たことのないバーニの激しさに気押されて言葉を失った。ナキアはそれまで、飢えて死にかけた哀れな孤児に衣食住と仲間を与えてくれた優しいバーニと、自分の宿命と無力にうちひしがれ、諦観をたたえているバーニをしか知らなかった。穏やかで優しく哀しいバーニをしか知らなかったのである。その優しさに報い、その哀しみを癒すことができたならと、つい先程まで思っていた。
 この逞しく激しい人の胸と腕に強く抱きしめられたなら、どれほどの陶酔と幸福を味わえるのだろう――そんなことを考えるのは、今この時が初めてだった。
 頬が上気するのが自分でもわかって、ナキアは思わず顔を伏せたのである。
 恋を知らないナディンが、そんなナキアの顔を心配そうに覗きこんでくる。
「ご…ごめんなさい、ナキアさん、おどかして…。あの…危険は全然ないんです。ナキアさんにはどうということもないみたい。陛下には少しお辛いかもしれませんが、夏菫の御方を承認するのもシュメールの務めですし…」
「?」
 ナディンはもう、普段の優しい目に戻っていた。
「あのね…」
 初めて出会った時のまま、白い菫の花のような微笑を浮かべ、ナディンは、彼の守護神、愛の女神イナンナの与える"試練"をナキアに告げようとした――のだったろう。だがそれは、ふいに神域の扉を開けて広間に入ってきたイルラとウスルによって遮られた。






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