「おまえがシュメールに選ばれた時――」 彼が、静かに語り始める。 「おまえは神に選ばれた喜びに頬を上気させて、俺の腕の中に飛びこんできた。俺はあの時思ったよ。おまえはシュメールで、俺の仲間で、もうあの残酷な男の弟じゃなくなる。だから、これからは俺だけを見てくれるようになるんだ、とな。は…俺は自分がシュメールなのに、それまで意識してもいなかったんだ。王と国への忠誠がシュメールの第一義だとは」 「ナイド…」 それがなぜバーニへの憎しみを培うことになるのか、ナディンにはやはり理解できなかった。 「どうして…そんなこと言うの…」 これ以上ナイドに話を続けさせていてはナディンが傷つくばかりだと思ったのか、イルラがナイドの代わりに答える。 「おまえが陛下を憎まない分、ナイドが陛下への憎しみを養ってしまったのだろう…」 それは半ば以上ナイドの弁護だった。 「そんな…僕は、だって、ナイドがいてくれたから陛下を憎まずにいられたのに…!」 それまで無理に気を張っていたナディンは、イルラの諭すように穏やかな声音に、逆に緊張の糸を切られてしまったらしい。冥府の神エレシュキガルに魂を奪われたかのように、ナディンは神域のレンガの床にへたりこんでしまった。 そんなナディンの様子を見せられたナイドの横顔に翳りが走る。 彼は、手を差しのべてナディンを抱き起こしたいのを必死に堪えているようだった。いつものナイドなら、間髪を入れずにそうしていただろう。もし他の誰かが彼より先にナディンに手を貸していたら、それだけで不機嫌になっていたに違いない。 だから、ナキアは一瞬ためらった。だが、いつまで待ってもナイドが動こうとしないのに焦れて、ナディンの側に駆け寄る。 項垂れて、視点も定まっていないようなナディンの肩を抱き、ナキアはナイドを怒鳴りつけた。 「ナイド! どうして濡れ衣だって言わないの! ナイドが違うって言えば、それが嘘でも、ナディンはキシュ王の自白なんかよりナイドの言うこと信じるわよ! それがいちばんいいことくらいわかってるでしょ。何もかも丸く収まった今なら!」 ナキア自身、ナイドを疑っていた時期があった。キシュ王の告白はおそらく事実なのだろうとは思う。だが、ナディンを悲しませるくらいなら嘘をつき通そうと考えるのが平生のナイドだとも、ナキアは思っていた。 しかしナイドは――ナディンが傷つき項垂れているというのに何も言わず、何もしようとはしない。ナイドがナディンに近付くのを恐れている――という不思議な光景が、シュメールたちの居心地を悪くしていた。 見兼ねたバーニがナキアに手を貸して、自失した感のあるナディンを、卓に沿って並ぶ椅子の一つに腰掛けさせる。それから彼は、ナイドを振り返った。 「ナイド…。ナディンが…ナディンが私より君の方を信頼していることはわかっているんだろう? ナディンは私に首を締められた時にも、苦しい息の下で君の名を呼んだよ」 それでもナイドは無言で、無反応だった。 バーニがこめかみを引きつらせる。彼にしてみれば当然の憤りだったろう。ナイドが誰よりもナディンを大切にしてくれていると思えばこそ、彼を妬みつつも、バーニはいつも二人から一歩引いた場所に立っていたのだ。 「ナイド、君は…」 「俺は――」 バーニの叱責を見越したかのように、ナイドが彼の言葉を遮る。 「俺は貴様をずっと憎んでいた。だから殺そうと企んだ。処刑でも何でもすればいいんだ。殺されても文句は言わない。人の死を望んだ者に死を与える。妥当な報いだな」 ナキアの指先で、ナディンの肩がびくりと震える。明らかに、ナイドの処刑という言葉に動揺したためだった。 死にかけた仔猫のように小刻みに肩を震わせ俯いているナディンを、ナキアはそれ以上見ていられなかった。 バーニも、それは同様だったらしい。 ナイドの命を奪う。それは、ナディンのためにできないことだった。 「……いざという時、狂った王を殺し、国土の平和を守る。それがシュメールの使命だ。ナイドは義務を果たそうとしたにすぎん。聖歌のことも――ナディンが感じとれなかったんだ、そんな意図があったと証拠だてるものはない。すべては――神のなさったことだ」 顔はイルラとウスルに向けられていたが、それはナディンのための言葉だった。 ナキアがほっと安堵の息を洩らす。 しかし、当のナイドはバーニの温情を受けることが我慢できないらしかった。挑むように険しい目で、己れの主君を睨みつける。 「寛大で慈悲深く、神々の善き僕【しもべ】たる王陛下。俺は貴様のそういうところが吐き気がするほど嫌いだ。負に支配されている時の貴様の方が、俺はずっと好きだよ。ためらいなく殺せる」 ナイドはバーニに"許してもらう"つもりなどないらしい。彼の性格を思えばそれも無理からぬことだったが、それではあまりにも――あまりにもナディンが哀しすぎる。ナディン自身は与り知らぬところで、だがナディンの存在そのものが原因になり、誰よりも信じていた仲間を失いかけている小さなシュメール――。 ナキアは唇を噛み、ナイドを睨みつけた。そして、もう一度ナイドに食ってかかろうとしたのである。 が、バーニがナキアを制した。 「――いつもナディンと共にいて、ナディンに笑顔を向けられている君を、私はずっと妬み続けていたし、そんな自分を卑小な人間だとも思っていたが……今日、私は初めて自分を誇る気になれたよ。少なくとも私はただの一度も君がいなくなればいいと考えたことはない。君がいなくなったらナディンがどれほど悲しむかを、よく知っていたからね」 バーニらしくない挑発的な物言いだった。だが、哀れみや寛容な言葉より、それはナイドを正直にした。 ナイドが恐ろしい剣幕でバーニに挑みかかる。 「貴様に…貴様に何がわかる!? 俺には何もなかった。親も、誇りに思えるものも、生きる目的も、幸福になりたいと願う心すら持てずに生きていたんだ。ナディンだけだ。ナディンだけが、俺を必要とし、俺を愛し、俺を頼り、俺を守ってくれた。俺はナディンさえいてくれれば他の誰もいらないのに、ナディンは違う。ナディンは、貴様を慕っていて、仲間が好きで、神殿にいる誰にでも優しくて、多分、話をしたこともない国の民をも大事に思っているだろう。それでも我慢してきた。ナディンにとって俺は特別だと、俺が一番だと、そう思うことで我慢できていたんだ。それを…!」 『僕の命も心も陛下に捧げております』 憎んで当然の兄に向けたその言葉が、ナイドの心を狂わせてしまった――というのだろうか。丈高く、女神のように美しく、いつも傲岸な態度を崩すことのなかったナイドが、唇を噛み、拳を握りしめ、肩を震わせている。その姿が、まるで真実を話しているのに大人に信じてもらえず悔しがっている子供のように、ナキアには見えた。 「ナイド……」 それまでナキアに支えられて力無く椅子に座りこみ、立ち上がる力もないようだったナディンが、ふいにナキアの手を擦り抜ける。その目は、枯れ果ててしまった涙の名残りをとどめて真っ赤だったが、唇は意志的に結ばれていた。たとえどんなことがあったとしても、ナイドが嘆き苦しんでいるのなら、彼を慰め力づけるのが自分の仕事だとでもいうかのように。 ナイドの側に歩み寄り、俯きかけている彼の顔を見あげる。ナイドの長衣の袖を握りしめ、ナディンは励ますようにその指先に力を込めた。 「ナイド、駄目。泣いちゃ駄目。僕がいるからね。ウスルだって、ほんとはナイドのこと好きなの。イルラもアルディもナキアさんも、みんなナイドの仲間なの。ナイドが泣いたら、みんな悲しいの。ナイドだってそうでしょ。ナイドは僕だけじゃなく、みんなに優しかったもの。そんな言い方したら、誤解されちゃうよ。みんなナイドの仲間なんだから、ナイドは一人じゃないの。寂しくなんかないの。ナイド、だから泣かないで」 それは実にナディンらしい慰め方で、そして、ナイドの望む慰め方ではなかった。やり切れない目をして、小さなナディンを見おろすナイドの視線にさらされて、ナディンの瞳に涙がもりあがってくる。 「どうしてそんな目するの。どうしてこんなことしたの。ナイドがいてくれるから僕も生きてられるんだって、ナイド、知っててくれると思ってたのに…! ナイドが生きてるから僕も生きてるんだって、そんなこともわからなくなっちゃったの…!」 耐えきれなくなったのか、そのままナイドにしがみつき、ナディンは糸を引くような嗚咽を洩らしだした。 しかし、ナイドはナディンを抱きしめてやることができない。泣いているナディンの肩に手を置くことさえできない状況に自分を追い詰めたのが、他ならぬ自分自身なのである。 ナイドはナディンには手を触れずに、半歩ほど身を引いた。 ナイドにそんな振舞いをされるのは、ナディンは初めてだった。一瞬驚きに目を見張り、ナイドの顔を覗きこむ。 そこには、後悔というよりは、ただ辛さと痛みだけをたたえたナイドの目があった。 彼は、しばらく何か言いたげに唇を開きかけては閉じていたが、やがて微かに横に首を振り、 「忘れていたのは――俺の方だったんだな」 そう、ぽつりと呟いた。 「ナイド…」 まだ少し心許なげではあったが、ナディンの表情には少し安堵の色が現れ始めていた。この六年間を自分たちがどんなふうに支えあって生きてきたのか――ナイドがそれを思いだしてくれさえすれば、すべてが解決するとナディンは思っていた。あとは二人して王と仲間たちに虚心に謝りさえすれば、仲間たちはきっと許してくれる――そう思ったのである。 だが、次の瞬間に、ナディンは思いがけないナイドの言葉を聞いた。 「俺が愚かだった。ナディン、すまない」 というナディンへの謝罪と、 「後始末は自分でつけることにする。さようなら、ナディン」 という別れの言葉を。 そしてナイドは仲間たちに背を向け、神域の南の大扉に手をかけた。 青銅の扉が、重々しい響きと共に左右に開かれる。神域の中に、逆巻くように光が流れ込んできた。 扉の向こうには、月例祭で王と神官たちが民衆と向き合う広い祭儀場があり、その先には広場へ、そしてエリドゥの都へと続く大階段がある。祭儀場は白い陽光に満ちていた。 階段の下の広場やエリドゥの都は、神域の中からは見ることができない。祭儀場の先にあるのは、ただ青く、ただ広く、そして雲一つない蒼天ばかりである。 仲間たちのいる神域に背を向け、ナイドがその空の方向に一歩を踏み出す。 ナイドの言う"後始末"の意味を悟って、ナキアの頬からはさっと血の気が引いていった。シュメールが、その力を神に返上することなく仲間たちから離れていく。それは、一人では生きられないシュメールの死を意味していた。 引き止めなければ…と、ナキアは思ったのである。思ったのだが、その方法が、ナキアには思い浮かばなかった。 王の死、エリドゥの支配、ナディンを独占すること――ナイドの真の目的が何であったとしても、彼のしたことは国への反逆、しいては神々への反逆である。この誇り高いナイドには、その重罪を誰かに許してもらうということ自体、我慢できることではないだろう。他人に罪を許してもらったという負い目を抱えて生きていくことが、ナイドにできるとは思えない――それが、その場にいた王とシュメールたちの一致した判断だった。 ただ一人、愛の女神に愛されたシュメールを除いて。 |