そして、迎えた瞬の誕生日。
星矢が瞬のバースディパーティーの会場に選んだのは、先日 沙織のバースディパーティーが催されたホールではなく、ダイニングルームでもなく、青銅聖闘士たちが平生 休憩室 兼 ミーティングルームとして使っている城戸邸のラウンジだった。
普段 部屋の中央に置かれているソファを壁際に移動させ、その場所にはどこから持ってきたのか大きな楕円形のテーブルが運び込まれている。
テーブルの上で最も目立っているのは、イチゴとホワイトクリームで飾られた特大のバースディケーキ、真鍮製のワインクーラーに入っているのはワインでもシャンパンでもなく アルコール分ゼロのソフトドリンク各種。
その周囲には、ここはいったいどこの惣菜屋なのだと訊きたくなるような家庭料理の数々が所狭しと並べられている。

「これこれ、こーゆー可愛くて こじんまりとして にぎやかな感じがいいんだよ。オシゴト上の付き合いとかのためじゃなくてさ」
可愛くて こじんまりとして にぎやかなテーブルの様子を眺めて、星矢は自分が成し遂げた仕事に至極満足そうだった。
もっとも、星矢が このパーティーのセッティングに関して行なった実作業は、パーティーのテーブルに並べる料理のメニューの選択と決定のみで、それ以外のいかなる仕事も彼はしていない――と、星矢の仲間たちは沙織から聞いていたのだが。

「これが、厨房のお歴々とミーティングを重ねて、星矢が用意したメニューか。実に庶民的なメニューだな。どう見ても、見栄えや祝いの席にふさわしいものかどうかということより、種類の豊富さと量が重視された料理のように見えるが」
「百歩譲って、鶏の唐揚げは我慢しないでもないが、どうしてバースディケーキの横にカボチャの煮つけやイモの天ぷらがなければならないんだ」
紫龍や氷河は星矢のメニューのチョイスに不満を表明したが、星矢は絶対の自信をもって、彼等のクレームを却下した。
「昼メシも兼ねてんだから、これでいいんだよ! パーティーで大事なのは、タキシードや燕尾服を着込むことじゃなくて、テーブルマナーを気にしなくていい食いもんが揃ってるかどうかだぜ!」

「星矢ったら、私のバースディパーティーで 料理を見ているだけだったのが よほど悔しかったのね」
スポンサーとして このパーティーに招待されていた沙織が、星矢の断言に呆れたように肩をすくめる。
グラード財団総帥のバースディパーティーの日、彼女は彼女の聖闘士たちに、客としてホールに来てもいいと言っていたのである。
にもかかわらず、星矢たちは『正装するのが面倒だから』という理由で、沙織の厚意を丁重かつ断固として拒んだのだ。
目の前にある豪勢な料理の前に立ちはだかった“正装”という障害が、星矢は地団駄を踏みたくなるほど悔しかったに違いない。
今 瞬のバースディパーティーのテーブルの上に並べられた料理たちは、星矢のその悔しさを如実に物語るものだった。
タコさんウインナと炒り卵の乗ったオープンサンドウィッチは、スワローテールを身にまとった紳士には決して食することのできない一品と言っていいだろう。

『誕生日おめでとう』ではなく『いただきまーす』の掛け声で始まった瞬のバースディパーティーのコンセプトは明確だった。
それは一言で言うなら、『庶民的』もしくは『大衆的』。
星矢の掲げる その思想は、祝いの席に並べられた料理だけでなく、瞬へのバースディプレゼントにまで及んでいた。
星矢は、瞬へのバースディプレゼントの価格上限を、事前に出席者たちに厳達していたのである。

「星矢に2000円以内でと言われて苦労したんだから。2000円ぽっちで何が買えるっていうの」
星矢が設けた制限に最も苦しめられたのは、私邸の年間維持費だけで億単位の金を使うグラード財団総帥で、
「山ほど買えるじゃん」
最も容易に その制限をクリアしたのは、価格制限を設定した星矢当人だった。
ちなみに、沙織が用意した瞬へのプレゼントは、各作品に鉛筆画がついた立原道造の詩集で、星矢が用意した瞬へのプレゼントは2000円分のバナナ。
星矢の心尽くしの(?)プレゼントは、その身にピンクのリボンをまとい、ケーキと争うほど派手な様子をして テーブルの中央に置かれている。

「バナナが誕生日のプレゼントになり得るとは考えたこともなかった」
目のウロコどころか逆鱗すら どこかに置き忘れてきてしまったような顔をして、紫龍が差し出したのは蘇州刺繍のハンカチ。
手芸品の目利きなどできない星矢は、それがごく小さな箱に収められているのだから安価なものなのだろうと安直に判断し、瞬に渡す許可を紫龍に与えたのだった。

――と、このあたりまでは、瞬のバースディパーティーは それなりに平和に進行していたのである。
だが、平和というものは長く続くものではない。
それは、人類が営々と営んできた長い歴史が語る、証明不要の公理である。
その悲しい公理が 現実のものとしてアテナの聖闘士たちの前に出現したのは、星矢が氷河に向かって、
「氷河、おまえのプレゼントは何なんだよ? ちゃんと2000円以内に抑えたんだろうな?」
と確認を入れ、星矢に確認を入れられた氷河が安堵と落胆が入り混じったような声で
「……来ないかもしれん」
と呟きながら、壁の時計に視線を投げた時だった。

最悪の事態を想定して 石橋を叩きながら川を渡る人間は、何のトラブルも起こらないまま無事に向こう岸に着いた時、安堵よりも期待外れの念を抱くものだろう。
氷河がそんな顔をして軽い舌打ちをした、まさにその時、
「瞬、無事かーっっ !! 」
一人の男が、冬眠から目覚めたばかりのヒグマが咆えるような雄叫びをあげて、瞬のバースディパーティー会場に飛び込んできたのである。
もちろん、それは瞬の兄であるところの鳳凰座の聖闘士で、思いがけない人物の大仰かつ騒々しい登場に、彼の仲間たちは大いに驚くことになったのだった。

「に……兄さん?」
瞳をきょとんと見開いた瞬と星矢、軽く目をすがめることになった紫龍と沙織の前で、瞬の兄は、どう見ても怒りと焦りでできた小宇宙を極限まで燃やし、全身から陽炎のような湯気を立ちのぼらせていた。
「20分の遅刻か」
肩で大きく息をしている瞬の兄を見やり、氷河が低く呟く。
その呟きを聞き逃すことなく、一輝は某白鳥座の聖闘士を ぎろりと睨みつけた。

「な……なんで、瞬がピンチに陥ってるわけでもないのに、一輝が来るんだ?」
なんとか気を取り直した星矢が、まだ事情を飲み込めていない顔をして、瞬の兄に尋ねる。
この場にやってくる前から怒り心頭に発していたらしい鳳凰座の聖闘士は、星矢のその呑気そうな顔と声に、更に怒りを募らせることになったようだった。

「これが瞬のピンチでなくて何なんだーっ !! 」
怒鳴りながら、一輝がバースディパーティーのテーブルに叩きつけようとしたものは、一枚の紙。
一輝がその紙をテーブルに叩きつけることができなかったのは、テーブルの上が料理の皿で埋め尽くされていたからで、一瞬迷ってから、彼は結局それを床に叩きつけた。
兄の側に駆け寄ろうとして席を立っていた瞬が、その紙を拾い上げる。

A3サイズのそれを、一輝はどうやら一度破りかけたらしい。
かろうじて一枚の紙としての体裁を保っているそれは、いずこかに貼り出されていたビラか何かのようだった。
『告知  本年9月9日正午までに鳳凰座の聖闘士が城戸邸に帰還しない場合には、その許可を得たものとして、白鳥座の聖闘士は瞬を押し倒す』
という文章が、黒々とした太いゴシック体で記されている。

瞬が手にしているビラを横から覗き込んだ紫龍は、その文を読んで瞬の兄の怒りの理由を得心し、深く頷くことになったのである。
「ああ、これは確かに大変なピンチだな。しかし、こんなもの、どこに――」
「氷河に頼まれて、私がアテナ神殿の壁に貼っておいたのよ」
紫龍の質問への答えは、意外なところから――知恵と戦いの女神の唇から――降ってきた。
氷河以外のアテナの聖闘士たちが、一斉に彼等の女神を振り返る。
「沙織さんが、アテナ神殿の壁に――?」
「ええ。一輝をおびき出すにはこれしかないだろうって、氷河が言うもんだから。やっぱり一輝がいないと瞬が寂しい思いをするだろうなんて、氷河に らしくもなく殊勝なことを言われたら、私としても協力しないわけにはいかなかったのよね」

「氷河……」
アテナから兄の帰還の経緯を知らされた瞬は、兄をここに招待してくれた白鳥座の聖闘士に感動の眼差しを投げかけることになったのである。
が、一輝をこの場に呼びつけた当の本人は、まるでギリシャから全力疾走してきたような瞬の兄の様子を見やって、あからさまに不快の表情を浮かべていた。

「まさか本当に帰ってくるとは思わなかった。つくづく不愉快な男だな、貴様は」
「不愉快な男はどっちだっ!」
一輝が肩を怒らせ、一歩一歩 怒りを床に刻みつけるような足取りで白鳥座の聖闘士の方に歩み寄っていく。
兄が本気で氷河に殴りかかろうとしているのを察した瞬は、すぐさま そんな兄の懐の中に飛び込んでいった。

「兄さん、来てくれてありがとう。無理だと思ってたんだ。嬉しい」
「む……いや……それは……」
ここで『俺は来たくて来たんじゃない!』と最愛の弟を怒鳴りつけることは、さすがの一輝にもできなかった。
3分間ほど、彼の心は、氷河を殴り倒したいという欲求と、弟のために温厚な兄を演じなければならないという義務感の間で揺れ動いていたらしい。
そして、最終的に、彼は、自身の怒りを晴らすことより、弟の望みを叶えることを優先することにした――そうせざるを得なかった――らしい。
一輝は、氷河に向かって打ち込むために握りしめていた拳を解き、諦めの色をたたえた笑みを浮かべて、その手を最愛の弟の肩の上に静かに載せたのだった。

「まあ……おまえの(貞操を守る)ためだからな」
「ありがとうございます」
もう一度 兄に礼を言って、瞬が、遠方から駆けつけてくれた兄を、バースディパーティー兼 昼食会のテーブルの方に手を引く。
瞬が氷河の真向かいの場所に兄の席を作ったのは、間に料理があれば兄も氷河に殴りかかっていくようなことはできまいと考えてのことだったろう。
氷河を睨む間を兄に与えない素早さで、瞬が、ケーキを一切れ載せた皿を兄の前に置く。
「どうぞ召し上がれ」
極上の笑みを浮かべた最愛の弟に そう言われた一輝は、自分は 瞬の兄としてこれを食さねばならないのかと顔を引きつらせることになったのだった。


「氷河、ありがとう」
そんなふうにケーキで兄を牽制し、氷河の隣りの自席に戻った瞬は、今度は氷河に、彼から贈られた素晴らしいプレゼントの礼を告げたのである。
兄に気取られないように、喉の奥で くすくすと小さな笑い声を作りながら。
「こんな冗談で兄さんが来てくれるなんて――ちょっと思いつかないやり方だったね」
「冗談なんかじゃない。俺はいつだって本気だ」
「え……」
氷河の抑揚のない低い声が、瞬の含み笑いを途切らせる。

そして、その言葉通りの氷河の真顔は、まだ完全には鎮火しきれていなかった一輝の怒りに新たなる燃料を投じることになった。
「氷河、貴様、冗談でなく本気で瞬を押し倒すつもりだったと、この俺の前で言うかーっ !! 」
「まあまあ、落ち着いて」
椅子を蹴倒しかねない勢いで立ち上がりかけた一輝の腕を、星矢と紫龍が両脇から押さえ込む。
そうして彼等は、よりにもよって瞬の兄に“自重”“自制”という高等技術を要求し始めたのだった。

「おまえがいない方が氷河には何かと都合がいいのに、氷河は瞬のために、わざわざそんな罠を仕掛けたりしたんだ。奴の健気な恋心に免じて、ここはオトナの対応をだな――」
「何が健気な恋心だっ。ただの助平心じゃないかっ」
「そうとも言うけど、それを言ったら、世界中の男の純愛が否定されることになっちまうだろ。言わぬが花で、武士の情けってもんだぜ。それに、瞬だけじゃなく、俺たちも久し振りにおまえに会えて嬉しいしさ。会うの、半年振りくらいじゃねーか? ちゃんと生きてたんだなー」
「おまえの好きなオレンジジュースもあるぞ。イタリア産のオレンジをわざわざ取り寄せて、ついさっき絞ったばかりのものだそうだ。そこいらのスーパーで売られているパック入りのジュースとは ものが違う」
「今、おまえの腹ん中 煮えくりかえってるだろ。鶏も一緒に食えば、腹ん中でチキンのオレンジ煮ができあがるぜ。かっこいー」

ここで怒り心頭に発した一輝に、本気で怒りを爆発され鳳翼天翔などぶちかまされてしまっては、苦心して用意した庶民的料理の数々が消し炭と化すことになる。
星矢は、そんな事態だけは避けたかったのである。
少なくとも、彼が満腹になるまでは絶対に。
その一心で、星矢は、一輝の口に次々に食べ物を押し込んでいった。
その食べ物を胃に流し込むために、オレンジジュースをどくどくと一輝の口に流し込む。

「やめんかーっ!」
一輝が悲鳴じみた怒声をあげて、星矢が手にしているグラスを払いのけたのは、星矢の所業に腹を立てたというより、自らの命を守るためだったろう。
『食べ物を喉に詰まらせての窒息死』は、アテナの聖闘士の死因としては最低最悪のもの。末代にまで語り継がれかねない不名誉である。
一輝は、そんな無様を甘受することのできる男ではなかった。

もちろん彼は、聖闘士の反射神経を発揮して、払いのけたグラスが床に落ちる前に、それを自身の手で中身ごと受けとめた。
が、なにしろ一輝に食べ物による沈黙を強いている星矢もまたアテナの聖闘士。
一輝に怒鳴られたくらいのことで、彼がしおれて攻撃の手を緩めるはずもない。
かくして彼等の戦いは終結を見ることなく続けられ、その戦いは徐々に激しさを増し、やがては たくさんの料理が並べられている大理石の重いテーブルをがたがたと大きく揺らすほどのものになっていったのである。

「瞬。おまえはしばらく そっちのソファの方に避難していろ。そこは危ない」
「あ、うん。沙織さんも」
氷河に言われて席を立った瞬は、アテナの身を案じたのだが、沙織は自分の席から動こうとはしなかった。
「私がこの席を立ったら、星矢たちはこの部屋を廃墟にしてしまいかねないわ」
アテナは自邸を守るために、その場に踏みとどまることを雄々しく決意したらしい。
彼女は彼女のために用意された席に着席したまま、彼女の聖闘士たちに決然と宣言した。
「私のドレスにジュースの染み一つでもつけてごらんなさい。どうなるかは わかっているでしょうね」
「わかってまーす」
食べ物の絡んだことで、星矢の元気な即答ほど信の置けないものはない。
アテナはもちろん、彼女の聖闘士たちを心から信頼していたが、その信頼はあくまでも戦時・戦場限定。
彼女は、食べ物を武器に熾烈な争いを続けている彼女の聖闘士たちに、思い切り不信の色をたたえた視線を投げかけることになったのだった。






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