「わあ、可愛い! 真っ白!」
今は生き地獄と大差ない惨状を呈している城戸邸に連れてこられてブルブルと震えていたその仔猫は、瞬の腕に抱きとられて、少し元気を取り戻したようだった。
瞬の小宇宙は、なまじな煖房装置より暖を取るのに適している。
だからこそ瞬は、この城戸邸が今置かれている窮状に気付いていなかったのであるが、それはさておき。
「町外れの教会の前に捨てられていたんだ。名前はシュン」
「え?」
大きな瞳をきょろっと巡らして、瞬は紫龍の顔を上目使いに覗き込んだ。
それから、もう一度、猫のシュンに視線をおとし、ふわっと微笑を浮かべる。
「うん」
そうしてから瞬は、自分の足許にまとわりついていたイッキとヒョウガの前に、猫のシュンを静かに下ろした。

「僕だからね。仲良くするんだよ」
「!」
「!」
途端に、ヒョウガとイッキは見事に人間の瞬から猫のシュンにすっ転び、3匹は その場に猫だけの世界を作り始めてしまったのである。
こうまであっさり乗り替えられて、少し寂しい気がしないでもなかったのだが、なぜかほっと安堵もして、瞬は、最近とんと近付けずにいた人間の氷河の側に寄っていった。
猫たちの妨害に屈したせいなのか、あるいは諦めていないからなのか、今日も朝から 氷河は5メートルの距離を置いたところで、不機嫌そうに瞬とヒョウガとイッキを睨みつけていたのだ。


「氷河」
仏頂面が癖になってしまったのか、氷河は瞬に名を呼ばれても眉ひとつ動かさず、返事も返してよこさなかった。
「氷河、機嫌悪いの?」
猫より気紛れな男に無表情でいられては、うまい対応方法も思い浮かばない。
瞬は溜め息をついて、氷河が偉そうにふんぞりかえっている長椅子のすぐ横にちょこんと腰を下ろし、黙り込んでしまった。
だんまりを決め込んだ氷河が なかなか口を利く気になってくれそうにないので、仕方なく、瞬は1時間ほどそうしたまま、猫たちがじゃれ合っている様を眺めていたのである。

そうして、1時間後。
「氷河、まだ機嫌悪い?」
「少し直った」
「よかった」
氷河のその声は 到底 機嫌のいい人間のそれとは思えなかったのだが、返事を返す気になるほどにまで氷河の機嫌が上昇したのもまた事実だったろう。
瞬は安心して にっこり微笑い、両の肩から力を抜いた。

「おまえは、人間より猫の相手をしている方が好きらしいな」
「そんなことないけど……」
口数が多ければ多いほど、氷河は機嫌がいいのだ。
皮肉を言ってくれるなど、ほとんど上機嫌の部類である。
瞬は、声だけはすまなそうに、しかし、口許をほころばせて言い訳を口にした。
「猫の兄さんやヒョウガが僕に頼ってくるのを見てたら、なんだかどきどきして嬉しかったから」
「人間の氷河は可愛げがないというわけだ」
「……」
今度の皮肉には、さすがの瞬も何も答えることができなかった。
『はい、その通り』と肯定するのは気がひけるし、かといって、『そんなことないよ』と否定してしまっては、あの可愛らしい猫たちに失礼である。

「俺は人を無視するのは好きだが、無視されるのは嫌いだ」
「うん……」
瞬としては、決して氷河を無視していたつもりはなかったのだが、実際そういう状況になってしまっていたのは紛れもない事実である。
瞬は、ここで氷河に口応えをするような愚かな真似をしないだけの分別を持ち合わせていた。
「猫のヒョウガとこの俺と、おまえはどっちが大事なんだ」
氷河が拗ねまくった猫のようなことを、表情に色のないまま、瞬に尋ねてくる。
「どっちも大事だよ。だって、どっちも氷河なんだもの」
「……」

喜んでいいのか悪いのかの判断が難しい答えではある。
氷河にも一応、人間としてのプライドはあるのだ。
「嘘でもいいから、俺の方だと答えるもんだ」
「うん……。でも、ホントのこと言ったら、猫のヒョウガに悪いから」
ためらいがちにそう言う瞬の顔を横目で窺い見てから、氷河はまた不機嫌な顔を作り、わざとらしく そっぽをむいた。
「ふん……!」
しかし、事ここに至って、城戸邸の気温は1時間前に比べて10度ほど上昇していたのである。
その態度とは裏腹に、氷河の立腹が収まりつつあるのは、火を見るより明らかなことだった。

「──そういえば、瞬」
「え? あ……はい、なに、紫龍?」
猫たちが猫たちだけの世界に没入しているのと同じように、瞬と氷河も自分たちだけの世界に浸りきっていて、彼等は、その場に紫龍がいることをすっかり忘れてしまっていた。
仲間の存在を思い出し、瞬が慌てた様子で その顔をあげる。
気分がよくなってきていたところに邪魔を入れられて、氷河は、(おそらく彼自身は意識せずに)城戸邸の気温を2度下げた。
が、2度3度の気温の降下が何だというのだろう。
紫龍は城戸邸の気温を世間並にするために――つまり、あと25度分気温を上げるために、あえてそんな野暮をしたのだ。

「俺たちの部屋の掃除をしてくれているメイドがな、このところラウンジやダイニングに猫の毛が散らばっていて困ると言っていたぞ」
「あ……ほ……ほんと?」
「ああ、特におまえの部屋だな。シーツに猫の毛が残っていて、クリーニングも別に出さなければならないと、ぼやいていた」
氷河の眉がびくりと動く。
城戸邸の気温はまた、2度ほど下がった。
「そ……そんなにひどくないはずだよ! 僕、こまめにハンドクリーナーで掃除してるもの」
「じゃあ、効果がなかったんだろう。──それにしても、おまえ、猫を2匹も抱えて眠っていたのか」
「あの子たち、ダメって言っても潜り込んでくるんだ」
更に城戸邸の気温が下がる。
世の中に氷河ほど 自分の感情に素直な人間はいないに違いないと 疑いもなく信じてしまえるほど、氷河は正直な男だった。
しかし、紫龍は そんなことではめげなかった。
彼の双肩には、城戸邸がこの極寒地獄から救われるか否かの運命がかかっているのだ。

「あの猫たちがおまえのベッドをそんなに気に入っているのなら、いっそ、そのベッドをあいつらに譲って、おまえは氷河の部屋にでも引越したらどうだ? 猫たちは広いところでゆったりできるだろうし、おまえも暑苦しい思いをせずに済む」
城戸邸の気温は突然20度上がった。
実に全く本当に、氷河は恥ずかしいくらい正直な男だった。
「ぼ……僕、平気だよ。そんなに困ってるわけでもないし、そんなの 氷河に迷惑だよ。ねえ、氷河」
「猫共の方を預かれと言われるよりは、ずっといいぞ」
無表情で喜び、氷河が ぼそりと低い声で答える。
「でも、やっぱり悪いから……」
「俺の部屋は気に入らないというわけか」
「そんなんじゃなくって……!」
半ば脅迫まがいの親切の押し売りに、瞬は大いに困ってしまったのである。
それは、どう考えても、人様の部屋にまで避難するほどのことではない。
少なくとも、瞬の認識ではそうだったのだ。

「なんなら、猫共の方を預かってやってもいいぞ」
初めて、氷河の顔に表情らしきものが浮かぶ。
鬱憤が溜まりすぎてどうにかなってしまったとしか思えない、それは、さしもの瞬が背筋を凍りつかせるほど冷たい、酷薄そうな笑みだった。
氷河の手に委ねられた猫たちの運命が、瞬には容易に想像できた。
「こ……今夜から、お世話になりますっ!」
ぞっとして、瞬は大声で叫んだのである。
「最初からそう言え」
城戸邸の気温が、更に10度ほど上がる。
紫龍は ほっと安堵の息を洩らし、身につけていたちゃんちゃんこを、おもむろに脱ぎ捨てたのだった。

その日の夜10時までに、城戸邸と外界との気温差は、めでたく0度に戻った。
猫たちの妨害がなくなったからといって、これまで保っていた5メートルの距離を急に縮めたりするような氷河ではなかったし、彼は できそこないの福笑いのように顔を緩ませるようなこともしなかったが、氷河が上機嫌でいる事実を、何よりこの気温が物語っている。
世界には、再び平和が戻ってきたのだ。






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