翌日になっても、氷河が部屋を出てくる気配は全くなかった。
食事その他の雑事等は、どうやら瞬が眠っている時間を見計らって済ませているらしい。
氷河にそんな扱いを受けることにショックを覚えつつ、それでも瞬は健気に幾度も氷河の部屋に赴き、繰り返し繰り返しドアを開けてくれるよう氷河に頼み続けたのである。
そして、応えのないドアに 空しい訴えを訴え続けている瞬を、紫龍もまた、
「1週間すれば出てくると氷河も言っていたし、そうしたら こんなことをした訳も教えてもらえるだろう」
と、説得し続けた。
素直、控えめを身上にしている瞬も、だが、こればかりは譲れなかったのである。
『待て』と言う紫龍と、固く閉じられたドアの間で、瞬は、
「1週間も待てない!」
と言い張って、ドアの前で頑張る姿勢を崩すことをしなかった。
紫龍は、そんな瞬に根負けしたらしい。
やがて 彼は、廊下に椅子を2つ運んできて、瞬の氷河説得に付き合ってくれるようになったのだった。

「そういえば、俺たちがまだガキだった頃に似たようなことがあったな。一輝がオタフク風邪にかかって部屋を出るのを禁じられた時、おまえはやはり こんなふうに 一輝の病室のドアの前で頑張って、誰に何と言われようとその場を動こうとしなかった」
氷河の冷たい態度に傷付き疲れきっていた瞬は、紫龍が突然 持ち出した昔話に、力無い笑みを返した。
「でも、あの時は、会えない理由が わかってたから、つらいことはつらかったけど、悲しくはなかったもの」
「おまけに一輝は風邪が治るまで、医者の言うことをきいて大人しくしていてくれなかったしな。おかげで俺たちは ひどい目に会った」
「あれは兄さんのせいじゃないよ!」
瞬の語調が少し強くなる。
紫龍は、その視線をちらりと氷河の部屋のドアに投げた。

「あれは、僕が泣き虫だったのが悪かったんだもの。それに、兄さんがいないと思って 僕をいじめにきた邪武たちだって、ちょっといけなかったんだから。兄さんは僕が泣き出しちゃったからって、ベッドから出てきてくれて──だのに、邪武たちってば、兄さんのほっぺ見て、笑い転げながらどっかに行っちゃったんだ。兄さんは、熱あるのに、僕のために無理してベッド抜け出してきてくれたのに、みんな笑うなんて ひどいって思って、それで、いじめられてた時の倍も、僕 泣いちゃった。僕、オタフク風邪って嫌いだよ」

そう言って、ぷっと頬を膨らませた瞬の上に視線を戻し、紫龍は口許に微苦笑を浮かべた。
「そのあとで、城戸邸ではオタフク風邪の嵐が吹き荒れることになったんだ。俺も感染うつされたぞ、目一杯。おまえもやっただろう」
「うん。でも、僕、子供の頃は頬がぷっくりしてたから、あんまり目立たなくて、大して熱も出なかったから、感染うつってるって わかった時には、もう、治りかけてたんだ」
「そうだったな。しかし、あの時は本当に傑作だった。城戸邸にいた者のほとんどが、猿の頬袋のように腫れあがった顔でうろうろと──」
「けど、今 思い出すと、みんな子供で小さくて可愛かったなあ──って、思うよね」
上目使いに紫龍を見あげ、瞬が微かな笑みを作る。
そうしてから、ためらいがちに、瞬は紫龍に尋ねた。

「紫龍、もしかして、僕を慰めてくれてるの?」
「……ただ、あの時の皆の顔は異様におかしかったと言っただけだ」
「……」
苦境にある時ほど、人の情けが身に染みるものである。
「紫龍、優しいんだね」
「氷河が冷たい分、な」
氷河の焼きもちに阻まれて、これまであまり言葉を交わす機会を持てずにいた仲間の思い遣りと優しさを知り、感動し、瞬は 心もち瞼を伏せた。
「ありがとう、紫龍」
「どういたしまして」

紫龍の優しさは嬉しい。
瞬は、本当に嬉しかった。
そして、その気持ちは、自然に『紫龍はこんなに優しいのに、なぜ氷河は』という思いを生む。
紫龍の優しさに触れたあとで、氷河の冷たさに思い至ると、瞬の目と喉の奥は かえって熱くなった。
そして、紫龍に それを気付かせないために、瞬は 一層深く顔と瞼を伏せることになったのだった。

瞬は知らなかったのである。
その肩で 瞬の感謝の言葉をさりげなく受けとめながら、紫龍が、部屋の外に出るに出られず のたうち回っている氷河、自室の内で怒り狂っているだろう氷河の姿を想見し、腹の中で思いきり呵々大笑していたことを。
自分の勝手な都合で瞬を泣かせている男には、これでもまだ軽い罰。
紫龍が そう思っていたことを。
どれほど瞬に懇願されても 氷河がその姿を瞬の前に現わそうとしない理由のくだらなさを知っている紫龍にしてみれば、この状況を利用して目一杯 氷河をいじめることは、瞬の友人としての使命のようなものだったのだ。
閉じられたまま応答のない氷河の部屋のドアを悲しげに見詰めている瞬を目の前にして、紫龍は、氷河をいたぶることへの罪悪感を微塵も感じていなかった。






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